今日は私たちの救い主イエス様の死に焦点をあてて考えてみたいと思います。イエス様の死は、まず神様のご計画によるものです。ペテロはペンテコステにおける説教の中で、イエス様の十字架の死は神様の定めた計画であったと宣言しています。(使徒2:23) イエス様は、十字架の死につながっていく逮捕以前にも、人々によって捕えられる可能性のある場面がありましたが、イエス様はその場をすり抜けていかれました。それは神様の定められた時ではなかったからです。神様の定められた時にはあえて不法な者たちの手にご自分をお渡しになりました。ですからイエス様の死は、同時に神様の執行(実行)によるものなのです。父なる神様が、私たちの罪を御子イエス様に背負わせられたのです。(イザヤ53:5-6) 父なる神様は、御子が痛めつけられる結果として罪人に救いが及ぶことをお喜びになったのです。(同10節) さらにイエス様の死は必然であり、必要なものです。(ルカ24:26) 罪のある私たち人間の救いのためには避けることのできないものでした。(ローマ4:25) イエス様の身代わりの死がどうしても必要でした。イエス様は旧約聖書の予言に基づいて私たちのために死なれました。(Iコリント15:3) イエス様の死は自発的なものであり、(Iペテロ2:24; ヨハネ10:17-18) その結果として罪人のためのとりなしが実現したのです。(イザヤ53:12) イエス様はご自分を父なる神様への供え物とされました。(イザヤ53:10) それは罪人が罪の責めを受けないためのなだめの供え物となられたということです。(ローマ3:25) 旧約時代において契約の箱のふたは贖いの蓋と呼ばれ、毎年一度動物の血が注がれましたが、イエス様の尊い血が流されたことは、神様と人との間に安全な防御壁が据えられたことを意味します。イエス様はご自分の身をもって、父なる神様の罪に対する怒りを受け止めてくださり、なだめを実現してくださいました。それは同時に父なる神様が受け入れてくださる香ばしいかおりのささげものでもありました。(エペソ5:2) 私たちの救いを現実のものとしたイエス様の死を改めて覚え、神様の慈愛深さを感謝し賛美致しましょう。
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