コンピュータや家電には、さまざまな機能が内蔵されています。それを知って利用するならば、しようとしている作業をより容易に、またスムーズに行うことができます。一方、便利な機能があってもそれを活用しないのであれば(あるいはその方法を知らなければ)それらの機能は有効活用されません。またある機能については、誤った使い方をすれば機械を壊してしまったり、自分自身を危険にさらすこともあります。
イエス様を信じたクリスチャンには御霊が“内蔵”されています。これは、クリスチャンに対する神様からの驚くべきプレゼントです。御霊に働いていただき、歩みを導いていただく時に、その人の歩みはより豊かなもの、神様に喜ばれるものとなります。
今回は御霊によって歩むことと、そうでないものによって歩むことについて考えます。
I. 御霊によって歩むことの命令と結果(16節)→自由を与えられたクリスチャンが互いに愛し合い仕え合うため(13~15節)には、御霊によって歩むことが必要です。御霊は私たちに霊的理解を与え、救いを受け入れさせ、神様を「父」と呼ばせてくださいます。(Iコリント2:14; ローマ8:15; ガラテヤ4:6)またクリスチャンとしての人格を成長へと導き、神様をお喜ばせする歩みへと導きます。それは前進する歩みです。人の側は御霊の支配に自らを委ね、みことばに対して従順で応答することが求められます。そのことにより、私たちの中にある肉(生まれつきの人、古い性質)は制御されるのです。
II. 御霊によって歩むことの戦い(17節)→私たちの中にある肉は、決して良いことをしません。良いことを願わず、御霊の働きに反対し、罪深い振舞いへと導きます。一方、御霊は邪悪なことは行わず、神様がお喜びにならないことすべてに反対します。私たちが地上で生きている限り、肉(古い、罪深い性質)は消滅することがありません。そのため、御霊の働きとの間で戦いが起こるのです。それは恵みによって救われたクリスチャンが生涯において、“神の道を選んで進んでいこう”と意識する必要から解き放たれることはないということを意味しています。
III. 御霊によって歩むことの自由(18節)→もし御霊によって導かれないのであれば、肉によって導かれることになります。御霊によって導かれることによってのみ、神様から与えられた自由の立場を保持することが可能となるのです。御霊に導かれるとは、受け身的になるという意味ではなく、自身が導かれるために積極的に委ねることを意味しています。御霊のちからによって生きるならば、正しいふるまいと霊的態度が生み出されます。肉によって、律法によって生きるならば、19~21節にある逆のものが生み出されることになるのです。
まとめ:御霊によって歩むとは、自身の何ものも当てにせず、神様に依存することを選び続けることである →“内蔵”されている御霊による歩みが現実のものとなるかどうかは、それを選ぶあなた次第です。自分に頼り、自分の思いと判断のままに、考え行動するのであれば、神様が喜ばれない(そして人にも喜ばれない)ものを生みだしてしまいます。自分を信用せず、神様に信頼し続けることを選択するのであれば、神様が喜ばれるもの、御霊の実を実らせることができるのです。