“何を信じているかが問題ではない。何かを信じていることが大事なのだ”と言う方がいらっしゃいます。もし、“何を信じても行きつくところは皆同じ”なのであるならばそれでいいかもしれません。しかし、絶対的なもの、唯一のものがあるとするならば(聖書はあると言っています)そういうわけにはいきません。私たちは確かなものを信じ、確かなものに依存しなければ、確かな歩みを望むことはできません。イエス様は“真理である”とおっしゃいます。そしてこのお方を信ずるならば、神様のもとへ行くことができると聖書は言います。つまり、人が神様と関係を持つことができ、確かな幸いな歩みが可能になるということです。イエス様は私たちにとって光であられます。今回は十字架を見据えておられる光なるお方について学びたいと思います。(ヨハネの福音書12章27~36節前半)
I. 光なるお方の覚悟(27~30節)
主の動揺(27節前半):イエス様が栄光をお受けになる時が到来したことは確かですが、そこに何の痛みも伴わない、ということでは決してありません。十字架へと進んでいかれるイエス様(でさえ神であられると同時に人であられるのですから)には、恐れや不安、動揺、そして罪のないお方として、世界の人々の罪ゆえに受ける神の怒りをお考えになることによる嫌悪感があったのです。(マタイ26:39前半)
主の献身(27節後半):しかし、同時にイエス様には、神様のあがない(救い)の計画は遂行されなければならないことのご認識がありました。困難を通ることなしに、その先の勝利はないことをよくご存知であられたのです。(マタイ26:39後半)27節の最後のおことばには、イエス様のご生涯における献身が凝縮されています。
主の求め(28節前半):イエス様は、(この先どのようなことが起こるのであれ)父なる神様の栄光があらわされることを願われました。どのような価を払うのであれ、父なる神様のお名前に栄光が帰せられることをお望みになったのです。生きること、また死ぬことにおいての、イエス様の原則(意図)がこのおことばにあらわされています。(ヨハネ7:18; 8:29, 50)
II. 光なるお方のさばき(31~34節)
サタンに対するさばきの現実(31節前半):神様はご自分をお示しになり、メッセージを与えられ、その上で(信じる/信じないの)応答に対して責任を問われます。イエス様において、神様は示され、罪と罪に対するさばきが明らかにされます。神様に対する罪・反抗の根源はサタンの存在にあります。この世界を支配する存在(ヨハネ14:30; IIコリント4:4; エペソ2:2; 6:12)に対するさばきは確かなものです。
サタンに対するさばきの方法(32~34節):イエス様はサタンのさばきのため、そして罪に苦しむ者たちのために十字架にかかられました。(ヨハネ3:14; 8:28) 十字架に上げられた(挙げられた)イエス様を、父なる神様は高く上げて(揚げて)くださいました。(使徒2:33; 5:31; ピリピ2:9)
サタンに対するさばきの結果(31節後半、32節後半):イエス様の十字架は、神様に対するサタンの勝利に見えます。しかし、イエス様の十字架、そしてその後の復活はサタンに敗北をもたらすものです。イエス様のみわざは、サタンに縛られていた人々を解放し、ご自分の栄光の中へと引き戻すのです。
III. 光なるお方の招き(35~36節)
光の中の歩みを継続せよ(35節):イエス様を信じ、光の中を歩み始めた人は、その歩むを継続しましょう。なお罪の性質をもち、闇の世界に身を置くという現実の中で、神様の恵みと助けによってイエス様の前に誠実に忠実に歩みましょう。正しい動機をもって生活しましょう。常にみことばの光に照らしていただいて確信をもって進みましょう。
光の子どもとして歩むための信仰を持て(36節):神様に従い、神様との正しい関係の中で歩む人は、光の子どもです。神様はすべてのきよさ、正しさ、善良、真実の基礎(源)であられます。光の子どもはこれらの性質を映し出す者でなければなりません。(Iテサロニケ5:5; エペソ5:8)そのためには光であられるお方を信じる、信じ続ける、従い続ける必要があります。
まとめ: 光なるイエス様を信ずる歩みは確かな歩みである
イエス様を唯一の神、救い主として個人的に信じて救われたクリスチャンは、光なるお方(イエス様)から光をいただいた人です。かつては暗闇の中にいた者に光が照らされ、真実が知らされました。まことの神様を示していただきました。自分の罪を示していただき、その解決も与えられました。それは光なるお方の十字架の犠牲によります。イエス様を信じて、光に照らされて、本当の意味で生きるためのちからをいただきました。歩むべき道を照らしていただきました。そしてなおどのように神様の前に歩むべきか教えていただいています。光なるお方を見上げて信じて歩む限り、クリスチャンの歩みは間違いのないものとなるのです。