“どんな道でも行き着くところは同じだ”と言う人が結構います。何を信じていても本当に同じ幸福に到達するのでしょうか。それぞれが自分が良いと思うものを真面目に信じていれば、幸せになれるのでしょうか。聖書は“幸福の道は一つしかない”と教えます。救いの方法はイエス様以外にはないとみことばは伝えます。真実は一つであることをクリスチャンは知っており信じています。そして信仰・価値観が多様化する現代において、変わることのないみことばの真実はなお語られなければならないと信ずるのです。(使徒の働き5:33-42)
① みことばの真実を語ることに反対は付き物である (33-40節) →A. 激しい反対の可能性(33節): 使徒達は宗教指導者達に対して、罪を指摘し、救い主イエス様について再度語りましたが、彼らはそれを素直に聞こうとはせず、反って凶暴な反応を見せました。みことばに対して時には強い反対を受けるかもしれませんが、今の日本においては、“あなたはあなた、私は私”と扱われたり、むしろ無関心という反応の方が多いように思われます。 B. 不信者による“援護射撃”の可能性(34-39節): ガマリエルという尊敬され有名なパリサイ人教師が立ち上がり、血気盛んな者たちをいさめようと発言しました。彼は他の宗教指導者達に対して、自分たちの計画(企み)をよく考え、過去の例を念頭に置いた上で、使徒達の動向を見守るようにと提案しました。ガマリエルの語ったことは完全な意味で正しい発言ではなかったのですが、使徒達のその後の活動に少なからず「追い風」となるよう神様が用られたということができます。クリスチャンは学校・職場・地域で難しい立場に置かれることもありますが、神様が“脱出の道”のためにノンクリスチャンを配置してくださることもしばしばです。 C. 暴力的迫害の可能性(40節): ガマリエルの言葉を受け入れた宗教指導者達ではありましたが、使徒達を釈放する前に鞭打ちをし、再度イエス様の名によって語ることを禁止しました。私たちの周りでは暴力的迫害は殆どないかもしれませんが、信仰者としてことばの暴力というものに遭うかもしれません。
② みことばの真実を語ることはイエス様の御名のための働きである (41節) →A. 御名のために辱められる可能性: 使徒達は苦労を経験しました。しかしそれはイエス様のお名前のため、イエス様を信じて従っているためでした。クリスチャンはともすれば、信仰故の反対を受ける時、自分の気持ちだけに意識がいってしまうかもしれませんが、共に反対を受けてくださっているイエス様の存在を念頭に置く必要があります。クリスチャンの受ける反対(迫害)は単なる苦労ではなく、イエス様のための苦労であり、イエス様が決して見過ごしておられない苦労なのです。 B. 御名のために辱められる喜び: イエス様のお名前のための苦労であることを認めていた使徒達は、悲しまないだけでなく、反って喜んでいました。彼らは自分達の苦労を神様が価値あることとしてご覧になっておられることを知っていたからです。クリスチャンはみことばを語ることも、語ることによって反対を受けることも神様のためであることを認識するなら喜びを経験できるのではないでしょうか。
③ みことばの真実を語ることは継続されていくものである (42節) →A. 神様を見上げ確信を持つ信仰者の働き:釈放された使徒達は宗教指導者達のおどしをものともせず、続いて毎日みことばを教え、語っていきました。忠実な布教(伝道)活動は神様の前に確信をもった者たちによって続けられてきましたし、これからも続けられていくのです。 B. イエス様を伝える働き:使徒達の語るメッセージの中心はイエス様でした。イエス様が主であられ、唯一の救い主であられることが繰り返し伝えられていったのです。
まとめ: 反対されてもイエス様の御名のためにみことばの真実を語る働きに参加しましょう。
→ 聖書の真実は立ち続けます。時代は変わり、人の考え方は変わり、価値観は変わってもみことばの真実は変わることがありません。先にみことばが与えられ、イエス様を信ずる信仰が与えられたクリスチャンは、たとえ難しい状況に置かれようとも、真実を伝える働きに携わっていきましょう。イエス様のお名前が伝えられるところに、またイエス様のお名前によって行われる奉仕があるところに神様のお働きがあります。「あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください」(詩篇119:86)