6月21日 主の愛は洗足にて

ヨハネ13章はこの福音書の第二区分の始まりでもあります。これまでの章では、イエス様の教えやお働きは公に、一般に向けられたものでしたが、ここから(特に17章まで)はイエス様がご自分を受け入れた者たち(弟子たち)に限定したものとなっていきます。これらの章は、イエス様が裏切りと逮捕を経験される夜に語られた事がらを記しています。今回はイエス様が弟子たちの足を洗われることを通して示される愛について学びたいと思います。(ヨハネの福音書13章1~11節)

I. 十字架の苦しみを超越するイエス様の愛(1節)
ご自分の時が来たことを認識され
ご自分の者たちを特別に顧みられる

イエス様の時はまさに来ようとしていました。イエス様がこの世を去られ天の御国にお帰りになるまでの間には、避けて通ることのできない十字架の受難がありました。そのことを知っておられる“にもかかわらず”、あるいは知っておられる“がゆえに”、ご自分を信ずる者たちを愛されたのでした。イエス様にとって、ご自分を信じ受け入れた者たちはご自分の所有です。彼らは父なる神様がイエス様にお与えになった者たちです。イエス様は彼らを最後まで、また最高の範囲でもって愛されました。イエス様の無限の愛、それは完全で、救いを実現する、永遠のものです。(ヨハネ15:13)

II. 父なる神様の御心を優先するイエス様の愛(2~3節) 
裏切る者を認識されながら
父なる神様からの権威を認識され
父なる神様のもとへの帰還を認識される

イエス様が弟子たちとともにされた「夕食」は過ぎ越しの食事であったと思われます。この“最後の食事会”にはイエス様を宗教指導者たちに売り渡してしまうユダも参加していました。すでにユダは悪魔と一つになっていたのです。このような現実において、イエス様は父なる神様のお考えを最優先にされ、ご自分の無限の愛をお示しになりました。イエス様は、父なる神様がすべてのものの権限をご自分にお与えになったこと、ご自分が父なる神様のもとへ再びお帰りになることをご存知でした。それは、弟子の裏切り、苦しみ、死をお通りになって栄光をお受けになることを知っておられたということです。(へブル12:2)

III. 罪のきよめを可能にするイエス様の愛(4~11節)
自ら奉仕者となられ
ご自分が人の罪を取り除くお方であることを示される

イエス様は突如食事の席を立たれ、弟子たちの足を洗い始められました。当時 足を洗うことは(異邦人である)奴隷のする仕事であり、人として求められる最低の仕事という理解がありました。弟子たちは誰一人この仕事をしようとしませんでした。この食事の席では“だれが一番偉いか”という議論も起こっていたようですので(ルカ22:24)、イエス様の行動は彼らのプライドを指差すことにもなったことでしょう。
ペテロの番になった時、彼はイエス様に“私の足を洗おうとされるのですか”と言いました。ペテロは、他の弟子たちの足はともかく、イエス様の足なら喜んで洗ったことでありましょう。しかしイエス様が自分の足を洗おうとされることには躊躇し、不快感さえ覚えたことでしょう。イエス様は、この洗足が意味することついては後で理解することになると仰いました。またイエス様がこれをしないのであれば、ペテロとの関係はないとも仰いました。ペテロは“では、手も頭も”と言ったのですが、「水浴した者」はその必要はないと仰いました。
イエス様の洗足は、まもなく成就されようとしているイエス様の救いの御業を指し示しています。罪のある人間は、イエス様の“洗い”を経験することにより救われます。イエス様を信ずる時に、イエス様の十字架の死に基づいて罪がゆるされ(きよめられ)イエス様(神様)との正しい関係を持つことができます。イエス様が、罪人の罪を取り除く方法となられたからです。イエス様の“洗い”がなければ神様の国にふさわしいものとなることは決してできません。「水浴した者」は信仰により罪がゆるされ、神様の前に正しい者としての立場を与えられている人です。この人は再び“全身を洗う”必要はありませんが、日々の歩みの中で犯してしまう罪ゆえに、“足を(繰り返し)洗う”必要があります。それは神様の前に(その都度)罪を告白してゆるしときよめをいただくということです。
イエス様の足を洗う愛の行為は、霊的きよめを象徴するとともに、きよめられた者(クリスチャン)の奉仕者としての歩みの模範でもあります。イエス様に仕える者には謙遜と献身が求められます。すべてを受け入れること(受容)が求められます。仕えるためには準備が必要です。(奉仕には準備も含まれます)そして奉仕は自分から動くもの(自発的なもの)です。

まとめ: イエス様の愛に満ちた究極の奉仕により、人の究極の問題は解決された

肉体的・精神的苦しみに加えて、人類の罪を背負うことの苦しみ、神の怒りを受け罰せられ、神から見捨てられることの苦しみをイエス様は経験されました。しかしイエス様の愛は、このような壮絶な十字架の苦しみを甘んじて受けることを可能にしました。またイエス様の愛は、父なる神様の御心を行うことを促し、御心を成し遂げることを可能にしました。イエス様の従順は十字架に至るまで一貫したものでした。そしてイエス様の愛は、罪のある者がゆるされ、神様に受け入れられることを可能にしました。仕えるしもべとしてこの世界においでになったイエス様は最後まで奉仕者であられたのです。今一度、私たちの救いの重みを覚えましょう。イエス様の愛の深さを、そのちからを覚えましょう。そしてこのお方にお仕えする喜びを経験させていただきましょう。

 

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