今回の箇所では、イエス様がガリラヤ湖で舟に乗った状態で人々に教えをされています。(ルカ5:1~11)イエス様はお乗りになった舟の持ち主であるシモン・ぺテロに命令されました。深みに漕いでいって網をおろすようにと。イエス様はペテロ達が前の晩にどのような行動をとったのかをご存知の上で命令されています。彼らは漁師です。それは自分達の生活のための職です。そして働いたからといって収穫が保障されているわけでは必ずしもありません。イエス様の命令に対して、自分達の経験と考えによって行動するのであれば、イエス様に従わないという選択になります。イエス様に従うためには、自分達の考えを退けなければなりません。彼らにはイエス様の命令に対しての疑いもあったようですが、イエス様のことばに従って網をおろしました。結果は、二そうの舟が沈みそうなほどの大漁でした。
ノアの洪水の後、人類は他の動物を殺し、食べることを始めました。魚も人の食用となりました。魚は本能的に捕まらないようにと逃げるわけですが、人に食べられるために存在している魚が食べられないとしたらそれは魚にとって不幸なことと言えるのではないでしょうか。
人の存在目的は何でしょうか。それは神様の栄光をあらわすことです。魚が人のために存在しているように、人は神様のために生かされているのです。人が神様と正常な関係になり、神様を礼拝し、神様に喜んでいただくことが目的です。残念ながら罪の中にある人間は、神様のもとに来ることを嫌います。魚が人間から逃げようとするのと同様です。しかし人間には死後があります。死後には神様のさばきがあります。そのため、イエス様はあわれな人々を捕る(すなどる)ように仰られるのです。人間が神様に捕らえられる時、そして自由意志の中で自ら己を殺す時、そこには祝福があり、今度は人々を導く側に立つことができます。人々がイエス様を信ずるようにと働くことができ、それが神様へのささげものとなるのです。それは落ち込んでいる他のクリスチャンを励まし助けることも含まれます。イエス様に従うことによる収穫は、道徳的・精神的・肉体的・経済的なことなどにおける健全さです。それは神様の前において朽ちることのない業です。ペテロ達が一切を脇においてイエス様に従ったように、私達も一人の魂の獲得のために行動を起こそうではありませんか。