今日 私たちは神様がお定めになった二つの礼典を執り行う恵みに与りますが、メッセージではバプテスマに焦点をあてたいと思います。ある教会では、クリスチャンはバプテスマを受ける必要はないと教え、またある教会では、バプテスマを受けることによって人は救われると教えます。また「死者のための代理のバプテスマ」を行う教会もあります。バプテスマとは何で、何が正しいバプテスマなのでしょうか。神様はみことばによって、この礼典についてどのように教えておられるのでしょうか。
I. 神様の命令である
宣教の一環として行われるものである:イエス様は天にお昇りになる前に弟子たちに命令をお与えになりました。この“大宣教命令”の中に、バプテスマを授けることが含まれています。(マタイ28:18-20; マルコ16:15-16)バプテスマが神様からの命令であるならば、それを実行し受けることは神様への従順です。
神様からの権威で行われるものである:命令として与えられたバプテスマは、父なる神様、御子イエス・キリスト様、聖霊なる神様のお名前によって授けられるものです。
II. 信じ救われたことの表明である
イエス様を個人的に信じた者の表明である:聖書の記述の例によれば、(水の)バプテスマはイエス様を信じた者(だけ)に授けられたことがわかります。(使徒8:12, 38-39; 9:18; 10:48; 18:8)
罪ある者が信仰により悔い改めによって赦されたことの表明である:イエス様を信ずることの中には、自身の罪の悔い改めが含まれます。(使徒2:38)悔い改めは、神様に対する心・態度の変化です。罪の方角から神様の方角へと向きを変えるのです。(Iテサロニケ1:9)
罪ある者が信仰によりイエス様を救い主と認め神様に受け入れられたことの表明である:イエス様を自分の主(人生におけるご主人様)と認め信じ告白する者を神様は救ってくださいます。バプテスマは、イエス様を信じた者を神様が受け入れてくださったことをあらわすのです。(ローマ10:9-10, 13; Iコリント6:11)
罪が洗いきよめられるために、水のバプテスマは必要ありません。(バプテスマ自体は罪の赦しもきよめももたらしません Iペテロ3:21)バプテスマを受けることは、(すでに)罪がゆるされていることを説明するものです。目に見える“バプテスマ”が内面の“バプテスマ”を示しているのです。
天の国へ行くために、バプテスマは必要ありません。イエス様の隣で十字架に架けられた強盗はバプテスマを受けることができませんでしたが、天国へ行く約束をイエス様から与えられました。しかし、バプテスマを妨げる特別な事情がないにもかかわらず、バプテスマを受けようとしないクリスチャンは、神様の前に不従順であると言わなければなりません。
III. クリスチャンの新しいスタートである
キリスト様と一つにされる:水のバプテスマは、信じた者がキリスト様の中に浸される、据えられることをたとえています。それは死なれ復活されたキリスト様と一つになることの霊的奇蹟を説明しているのです。(ガラテヤ3:27) 水に入ることにおいて、死と葬りを、そして水から上げられることによって復活をあらわします。それは、罪を悔い改め、イエス様を信じた者が、イエス様と、死・葬り・復活において、同一視されることを意味します。(ローマ:3-4; コロサイ2:12)イエス様と共に死んだ者が、新しいいのちに生きることを象徴するのです。(IIコリント5:17; ガラテヤ2:20)
教会に加えられる:初代教会において、イエス様を信じてバプテスマを受けた者は「弟子に加えられ」ました。(使徒2:41)現代においても、同じ信仰をもった者たちの集合によって一つのからだ(教会)が形成されます。(Iコリント12:13)からだのかしら(頭)はイエス様で(エペソ5:23)、一人一人のクリスチャンはからだの各部分を構成します。(エペソ5:30)それは、教会に(加わる)連なるクリスチャンが、イエス様の権威を認め、他のクリスチャン(兄弟姉妹)と共にその祝福と責任を共有することを意味しています。(Iコリント12:20-27)
まとめ: バプテスマの意義を覚え、キリスト様との究極の結びつきを感謝し、キリスト様とキリスト様の教会を愛し仕える者とならせていただきましょう
人が水の中に沈められる儀式は、その意味するところ(示すところ)を正しく理解することが重要です。これは人の内側で起こったことを外側に表現するものです。人の心に行われた救いのみわざ、そしてこれから行われようとしていることを、バプテスマは象徴しているのです。バプテスマは、キリスト様によって救われ変えられた人に授けられ、これらの人々によってキリスト様をかしらとする教会が建て上げられていくのです。教会の各部分である一人一人のクリスチャンは、イエス様にあって(またイエス様によって)つながり、イエス様の栄光のために心を、そしてちからをあわせて共に前進していくのです。