喜びの表現は様々です。万歳やガッツポーズをして喜びを表わす場合もあれば、静かに喜びをかみしめることもあります。時には泣きながら喜びを表わすこともあるでしょう。表現の仕方はともかく、クリスチャンは、喜ぶことができることを聖書は教えています。御霊の支配と導きによる喜びがどのようなものであるのかを学んでみましょう。
I. キリスト様の喜びとはどのようなものか
キリスト様も喜びの感情をもっておられそれを表わされます。キリスト様は聖霊による喜びを覚えられました。また肉体をとられ、この世界においでになった時には、神様から離れ、罪の中に失われている人々が救われることをお喜びになり、十字架の恥と苦しみを耐え忍んでくださいました。さらに救われたクリスチャンがみことばによって成長すること、神様の御心を行う者へと変えられていくことを喜ばれました。(ルカ10:21; 15:5; ヘブル12:2; ヨハネ15:11; 17:13)
II. クリスチャンの喜びとはどのようなものであるべきか
①命令されている喜び:私たちは罪の結果、死とさばきが決まっていましたが、キリスト様の身代わりの死と復活により、救われました。罪がゆるされ、永遠のいのちをいただいた者として神様に(永遠に)覚えられていることは常に喜ぶべきことです。(ルカ12:20; 使徒8:39; 16:34) また日々の生活においては嬉しくない状況も多いのですが、そのような中にあっていつも主にあって(主がどのようなお方であり、主に在る者がどんなに幸いかを覚えて)喜ぶように、そして喜んでいる人と喜びを共有するようにと命令されています。(ピリピ4:4; Iテサロニケ5:16; ローマ12:15)
②約束されている喜び:神様から救いをいただいている者には永遠にわたる喜びと楽しみが与えられています。その喜びは豊かなものであり、神様を喜ぶことはクリスチャンのちからとなります。神様との交わりにより、祈りが聞かれることにより喜びが満たされます。「聖霊による喜び」は、神様の主権に対する確信を土台とした賛美と感謝というかたちで生み出されます。キリスト様に在る者も、涙と悲しみを経験しますが、それだけで終わらず喜ぶことができることが約束されています。」(ネヘミヤ8:10; 詩篇16:11; イザヤ35:10; ローマ14:17; ヨハネ16:24; 詩篇30:5; 126:5-6)
③困難における喜び:クリスチャンは悲しんでいてもおかしくない状況で喜ぶことができます。それは自分自身の信仰の成長や教会の成長を念頭に置くときに可能となります。迫害や試練においても、神様が正しい評価と報いを与えてくださることを覚える時に喜ぶことができます。たとえ地上の生涯においてすべてを失ったとしても、永遠の財産を手にしたクリスチャンは喜ぶことができる十分な(そして十分以上の)理由が与えられているのです。(IIコリント6:10; ローマ5:2-3; コロサイ1:24; マタイ5:12; ルカ6:23; 使徒5:41; Iペテロ4:12-13; ヘブル10:34; ハバクク3:17-18)
まとめ:あなたの心には御霊による喜びがありますか
まことの神様不在の喜びは、(それがどんなに幸せと感じるものであれ)最後には悲しみとなってしまします。(箴言14:13)喜びとは自己中心的な思いと行動から生まれるものではなく、キリスト様を第一とし、他者を優先させることによって自身も経験することができるものです。神様はご自分を信じ、頼る者に喜びを与え、楽しみを与えてくださいます。御霊の内住の恵みに与っているクリスチャンは、みことばを喜び楽しみ、まだ見たことのないキリスト様を愛し信じ、そして喜ぶ者であらせていただきましょう。(詩篇5:11; イザヤ61:10; エレミヤ15:16; Iペテロ1:8)