創造された最初の人が神様に従わなかったことにより、罪がこの世界に入ってきました。その結果は人の想像をはるかに超えるものとなりました。罪のために人は死ぬことが定まったのみならず、霊的な死を招くこととなりました。霊的死は神様とのいのちのつながりの断絶です。それはいのちの交流が止まることを意味します。人は罪の性質を持ち続け、それはあらゆるかたちで増大の一途をたどり始めました。さらに悪魔も人の罪の生き方を助長してきました。この世界の環境ものろわれることとなり、とげのある植物や害虫、そして伝染病や異常な気象現象などが存在することとなりました。このように罪の結果は単に将来における罰のみならず、人の日々の生活のあらゆる事柄に悪影響を及ぼすこととなったのです。
このような人=罪人、の救済のために、イエス・キリスト様の十字架の死は大きな意義をもっています。神様のもと=人の居るべきところ、を離れた人は迷子の状態となりました。(イザヤ53:6)人は人生について、永遠について知ることが出来ない者となりました。結果的に人は自身の考えと欲望の中で部分的な幸せを求めて生きる者となってしまいました。それは神様のご計画と目的の中に創造された人が、加害者(破壊者)となり、神様を被害者としたことを意味します。しかし被害者となられた神様のお心は、人が救われることを望まれたのです。
イエス様は自発的に、そして父なる神様への従順の中で、苦しみを喜んでお受けになりました。(Iペテロ2:24)人は罪の恐ろしさを知らない者です。それを知るならばイエス様の十字架の意義がわかるはずです。イエス様によって用意された方法を受け入れた人には、個人的に救いが有効となります。罪を行うことに無力となり、義のために活動的となります。罪は人に傷をもたらしましたが、イエス様は癒してくださいました。
イエス様は一つの正しい行為によって、人を義としてくださいました。(ローマ5:18)イエス様の十字架の死は、人の罪の償いを可能としました。私たちには到底できない罪の埋め合わせをしてくださったのです。イエス様が父なる神様に受け入れられる正しい行いをしてくださったことによってです。
人は神様からよいものを受けることができない者でしたが、イエス様の十字架により神様に近づけられました。(エペソ2:13)それは身分(立場)においてだけでなく、聖霊なる神様が内に住んでくださること(キリストの内住)によってです。さらにイエス様の十字架は人と神様、そして人と人との平和を実現しました。(エペソ2:16)
あらためてイエス様の十字架の意義を認識しましょう。イエス様の死は罪人のすべての必要を満たしてくださったということを。