多様性ということばがあります。これは、幅広く性質の異なる集団の存在を説明することばのようですが、“みんな違ってみんないい”ということもこのことばには含まれている、と理解している人もいるかもしれません。しかし、いずれにしても一人一人が何をやっても許されるということではないと思います。一人一人が意見を持つことは自由です。それらが良いかたちで提案されること、そしてそれぞれぞれの組織やグループの決まりにのっとって結論が出されることが望ましいと思います。私たちは人間としていろいろな考え方や価値観があり、一人一人それは違っています。しかし最終的に重要なことは、この世界を造られ支配しておられるお方の基準にのっとって事が行われることです。イエス様はその基準であられます。今回はこのお方の有名な宣言に耳を傾けたいと思います。(ヨハネの福音書14章5~7節)
I. 主は道であられる
6節はこの福音書における、イエス様による6番目の“わたしは~である”の宣言です。イエス様は道であられます。イエス様は、罪によって損なわれた部分がまったくないお方であられる神様についての知識をもたれる唯一の存在であり、父なる神様への道であられます。この時、イエス様はまもなくこのお方のもとへ行かれようとされていました。(ヨハネ13:3; 16:5, 10, 17)その過程において、十字架の苦しみをお通りになることで、罪ある者たちのための道を備えられたのです。(へブル10:20)イエス様は私たちに道を示されるだけではなく、イエス様ご自身が道であられます。イエス様はまことの神様への唯一の道、救いの道、ゆるしの道であられます。私たちにとってそれは選択すべき幸いの道であり、正しい道です。
II. 主は真理であられる
道であられるイエス様は真理でもあられます。イエス様は周囲の状況に関係なく、首尾一貫したまことを保つ完全なちからをもっておられます。イエス様は絶対的な真実であられます。イエス様が完全に信頼に足るお方であられるということです。そこには神様の人類に対する救いの計画も含まれます。イエス様はまことの神様であられ救い主であられます。真実・誠実・忠実に満ちたお方です。私たちは、このお方に人生を、そして永遠を安心して預けることができるのです。
III. 主はいのちであられる
イエス様は、死に支配されるお方ではなく、死を征服されるお方です。イエス様は死ぬことを通して、いのちのちからの継続をお示しになったのです。イエス様はいのちであられ、信ずる者たちにとっていのちの源であられます。(ヨハネ1:4; 3:15; 11:25)イエス様は、私たちにいのちを与え、霊肉共に活かされるお方です。私たちが人として相応しく活動するための原動力であられるのです。
道・真理・いのちであられるイエス様を通らなければ(通さなければ)誰一人、神様を知ることも、神様のもとへ行くこともできません。(使徒4:12; ヨハネ1:18; 10:7-9)イエス様は、人のかたちを取られ、唯一、父なる神様から“お墨付き”を与えられた神の啓示であられると同時に、神様に対して、承認された唯一の、人の代表であられます。私たちは、道がなくては神のもとへ行くことはできません。真実がなくては神を知ることはできません。いのちがなければ、神の前に生きることはできないのです。イエス様こそが、たどるべき(従うべき)道であり、信ずべき真実であり、望みを置くべきいのちなのです。それは神聖な道であり、誤りのない絶対的な真実であり、まことのいのち、祝されたいのちです。もし、私たちがイエス様の道にとどまるのであれば、真実を知るでしょう。そして真実は私たちを自由にし、永遠のいのちを保たせるのです。
まとめ: クリスチャンは、唯一無二の道であられ、真理であられ、いのちであられるイエス様をあらわす存在である
道は神と人とをつなぐものです。イエス様はその道となられました。真理はイエス様の信頼性をあらわしています。そしていのちはイエス様がもたらすちからです。私たちクリスチャンには、進むべき道が示され、頼るべきお方が与えられ、生きるちからが供給されているのです。6節は、イエス様の宣言であるとともに、私たちへの招きととらえるべきです。
イエス様の唯一の道を選びましょう。祝福の道を選びましょう。イエス様の真実を信じましょう。 真実を土台として歩みましょう。イエス様のいのちの豊かさを経験しましょう。イエス様によって生かされ、イエス様とともに生きる祝福を経験しましょう。イエス様を離れては永遠の幸いも、地上での(本当の意味での)幸いもありません。いのちに至る門、そしてその道を見出す恵みに与ったことを覚えつつ今週も歩ませていただきましょう。