“従う”ということばに否定的な印象を持つ人は多いのではないでしょうか。このことばを聞くと、“従わせられる、従うことを強制される”というニュアンスで受け取る人もいるでしょう。私たちは従うことが好きではありません。私たちの罪の性質は、従うことを嫌悪し拒否反応を示すのです。“従う”ということは、誰かの下に自分を置くこと、誰かの指示を仰ぐことと理解するのであればなおさらです。そこには謙虚さが求められますが、これは人にとって最も難しいことの一つであるからです。
人は従う場合においても、多くの場合、損得勘定で動いているのではないかと思います。従いたくはないけれど、そうしたほうが得だ、従わないと損をするというように考えるのです。人間の世界ではそのようにして秩序が保たれている側面も確かにあると思いますが、イエス様は(ご自分に)従うことについて何と仰っておられるでしょうか。(ヨハネの福音書14章22~24節)
I. イエス様を愛するなら イエス様に従うことができる
私たちの行動だけではなく、心もご覧になられるイエス様の前に、どのようにして従うことを実践できるのでしょうか。それは愛することを出発点とすることです。イエス様への愛を、従うことの原動力とすることです。この前提が存在して、心からの従順は現実のものとなります。
イエス様への愛は、私たちが神様に愛されていることの証明であり、同時に聖霊なる神様が内に住んでくださっていることの証明となります。
II. イエス様の愛を知るなら イエス様を愛することができる
問題となるのは、私たちは最初から神様を愛することはできない者であるということです。そもそも神様が「これが愛である」と言っておられる種類の愛を知らないのです。神様から本当の愛を教えていただいて、やっと愛を実践するスタート地点に立つことができるのです。
神様は私たちを造られたお方です。それは神様が私たちを愛しておられることを意味します。神様は私たちを生かし、支え、保っておられます。それは神様が私たちを愛しておられるからです。神様は罪のために落ちぶれ、死ぬことと、死後のさばきが定まってしまった私たちを救われました。それは神様が私たちを愛しておられるからです。イエス様を信じて、救われ、神様の愛、罪人に対する愛がわかるようになってきました。神様が人間に示しておられる愛は、無条件で、犠牲的で、徹底的なものなのです。その愛ゆえに、私たちは到底救われないところを救っていただきました。神様の愛を垣間見たというのではなく、愛そのものを体験させていただきました。そしてその愛は今も注がれています。このイエス様の愛を知ることで、イエス様を愛する応答が可能となるのです。
イエス様の愛はみことばによって知ることができます。また、イエス様の愛はイエス様を信ずることによって知ることができるのです。
III. 自分の罪深さを知るなら イエス様の愛を知ることができる
イエス様の愛を知るためには、その愛の対象である自分自身の罪深さを知らなければなりません。聖書は私たちの罪について明確にしています。自分の罪深さを知れば知るほど、そのような自分に対する神様の恵み、イエス様の愛の大きさを知ることができます。神様の前における罪の自覚は、救われることの切なる願いと、イエス様の愛の素晴らしさの認識へと人を導くのです。
私たちクリスチャンはイエス様に従うことが出来る者となったのです。神様の愛を知り、その愛に応答することが出来る者となったのです。イエス様を愛するがゆえに、イエス様のことばに従いたいと思うようになったのです。従わなければ、ではなく、従いたくなったのです。そうさせるのは、イエス様への愛です。
私たちの愛は(神の愛を体験した者であっても)完璧からは程遠いものです。ですから、イエス様に従うことがいつも簡単であるわけではありません。明確なことは、神の前における罪深さを認識すること、イエス様の愛を知ること、イエス様を愛すること、イエス様に従うこと、それらすべては神様(聖霊)のお働きによってのみ可能であるということです。
まとめ: 罪深い者への神の愛を認識する者は、イエス様を愛し、従う者である
愛から生み出されるイエス様への従順があるところに神様の臨在(啓示)はあります。22節のユダの質問に答えるとすれば、イエス様に従う者にのみ、イエス様はご自分を現わされるということです。イエス様を愛する者はみことばに従います。この人は父なる神様に愛され、父なる神様と御子イエス様と共に住むと約束されています。イエス様を愛さない者は、みことばに従いません。つまり神様に従うことを拒んでいるのです。そのような者に神様からの祝福はありません。
私たちが、聖書が示す通り、罪人としての出発点を正しく理解するのであれば、そしてどのようにして変えられ、救われたのであるかを理解するのであれば、従順は重荷とはならず、神様に対する愛の自然な表現となるのではないでしょうか。