「国民主権」の下では、国民が政治の主役であると理解されます。「主権」という考え方は昔の封建社会で専制君主が自分の権力を正当化するために用いたのが始まりのようです。主権には三つの意味があります。まず統治権で、これには立法権・行政権・司法権が含まれます。次に、最高独立性で、これは他の国などから干渉されないことです。さらに国政の最高決定権です。これは国の政策の最終決定権です。
このことを神様の主権にあてはめるならば、神様には統治権があり、決まりを作り、必要なことを実行し、裁くことをします。神様のされることに対して誰一人異を唱えることはできません。またご自分がお造りになった世界において物事の最終決定権を持っておられます。このお方を前にして、罪のある人間は服従するべきであるのですが、実際はその逆です。今回は、神の主権の下にありながら、人はどのような応答を神様に対してしているか学びましょう。(ヨハネの福音書7章1~9節)
I. イエス様に対する 人の殺意(1節)
イエス様は、ご自分を殺そうとするユダヤ人たちの存在ゆえ、ユダヤに行くことはされず、ガリラヤを巡っておられました。5章で、38年間病であった人が癒された場面で人々のイエス様に対する殺意があらわされています。彼らはイエス様がご自分を神と同等にされたことがゆるせなかったのです。これ以降、イエス様を捕らえ、亡き者にしようとする動きが活発になっていきます。(7:19, 30, 32, 44; 8:59; 10:39; 11:8, 53)
この時、仮庵の祭りが近づいていました。この祭りはユダヤ人の3大祭りの一つで9~10月に行なわれます。これは葡萄などの果物やオリーブの収穫祭で、人々は仮小屋を作り1週間を過ごすのです。このようにすることで彼らは荒野における放浪の旅を覚え、今の定住の場を感謝するのです。
II. イエス様に対する 人の不信(5節)
この節ではイエス様の兄弟のイエス様に対する不信があらわされています。他の福音書を見るとイエス様の(異父)兄弟として、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの名前が出てきます。(マタイ13:55)彼らはユダヤ(エルサレム)に行って(公の場で)奇蹟のわざをするようにとイエス様に提案しています。彼らも多くのユダヤ人のように社会的・政治的メシヤを求めていたのかもしれません。或いは単にそのちからを人々に見せびらかしてほしかったのかもしれません。いずれにしても、彼らはイエス様を信じてはいませんでした。彼らはすでに目撃したであろう奇蹟の意味するところを理解していなかったのです。彼らはイエス様の死と復活の後(約8か月後)までイエス様を信じなかった可能性があります。
イエス様は、カナの婚礼の場面で母親マリヤに言われたように、彼らに返答されました。(ヨハネ2:4)イエス様は父なる神様のお定めになったスケジュールにしたがって(委ねて)事を行われます。それゆえご自分の兄弟たちのイエス様に対する反応によって動かれることはないのです。神様を信ずることなく、神様の目的や時を認識することのない人々にとって、“自分が良いと思う時に良いと思うことをすること”は当然のことと言えます。
III. イエス様に対する 人の憎悪(7節)
イエス様の兄弟たちは、この時まだこの世に属していました。それゆえ彼らはこの世に愛されていたのです。(ヨハネ15:18)しかし、イエス様はこの世に属しておられず、またこの世の悪い行いを指摘されるのでこの世に憎まれました。(ヨハネ17:14, 16)
神の栄光のために生きる、新しく生まれたクリスチャンも、この世から憎まれ反対を受けます。(ヨハネ16:2; IIテモテ3:12)
父なる神様の完全なタイミングとご計画が整わなければ、ユダヤ人はイエス様を殺すことができないこと、これが、イエス様がこの祭りに(この時点において)「行きません」と言われた理由の一つです。
まとめ:罪人の様々な障害に対して 神の主権は超越する
人は、まことの神様の存在を知らなければ、神様に対して無礼なままであり続けます。神様を悲しませ、冒涜し、怒らせることをします。しかし、神様、そして御子イエス様の神たることに何の影響もありません。その全知・全能、そしてご支配は常に現実です。人がイエス様を信じなくても、憎んでも、殺そうとしても、神たるお方は変わることがありません。また、人がどのように反対し反抗しようが、イエス様が人に救いを与えることができることにも変化はありません。人は神を変えることはできませんが、神は人を変えることができます。
神の主権を認める人は、神様に身を委ねます。その人は平安を経験し、神様を信ずること(期待すること)を継続し、あらゆる事柄の結果は“神ゆえである”と理解します。あなたは神の主権に対して、どのような立ち位置であられますか。