聖書は断食について語っています。本質は肉体的なものを霊的なものに自発的に従わせることが断食の意味です。(Iコリント9:24-27) 旧約の時代においては一つの定め(命令)として断食が規定されていました。それは(定められてはいても)実行できない弱い者であり、自らが神様に依存しなければならないものであることを認識するためでした。聖書の中で、人々は、悲しい事件が起こった時(Iサムエル31:11-13; IIサムエル1:12)、危険なことが迫っている時(エステル4:16)、重要なことを決める時(使徒13:2-3)に断食を行ったことが記されています。断食をすることによる結果としては、神様からの報いがあること(マタイ6:17-18)、神様が祈りに応えてくださること(マルコ9:29)、楽しみと喜びが与えられること(ゼカリヤ8:19)が約束されています。
ルカ5:34-35ではイエス様が「花婿」として描かれ、イエス様の十字架の死、或いは復活後の昇天の際には断食をすることが述べられています。花婿(新郎)・新しい着物・新しいぶどう酒はイエス様によって現実のものとなった神様の恵みのお取り扱いを説明しています。(同34-38節)人はこのような新しさの恵みに与りながら、なお慣れ親しんだ古いものから容易に移ることができない傾向にあります。(39節)本来は十字架においてイエス様が与えてくださった(流してくださった)新しい“ぶどう酒”に象徴されるところの尊い血潮をいただく時に(信ずる時に)喜びを経験したわけですから、その新しい土台の上に新しい歩みが継続されなければなりません。古い肉の欲に従う歩みに戻るのではなく、神様からいただいた御霊の導きに従い、実を結ぶ歩みをするべきです。日々様々な経験がありますが、神様に従うならばどのような中にも喜びが伴うはずです。御霊の実で説明されている通りです。(ガラテヤ5:22-23)御霊の実のリストには「自制」があります。本来 肉体的に苦痛を伴う断食においても喜びを経験できるでしょう。私たちは常に自らが新しい者として新しい歩みをしているか省みる必要があります。