9月28日 神様がおられる所

あなたの神様はどのような存在ですか。あなたの神様はどこにいますか。その神様に対してあなたはどのような態度をもって生活していますか。今回の聖書箇所はステパノの説教の途中です。宗教指導者からの訴えに対して彼は弁明を続けています。今回は特に「神殿を汚している」という訴えに対して語っています。この箇所から神様の存在を正しく理解し、その事実に相応しい生き方がどのようなものであるかを学びましょう。(使徒の働き7:44-50)

①神様がおられること(臨在)の象徴:幕屋 (44-45節) →旧約聖書のモーセの時代には幕屋がありました。それは(聖書の)神様がイスラエル人の中に住むことを目的としていました。(出エジプト25:8) 幕屋は木材や動物の毛、皮、そして金、銀、銅などによって造られた(解体と建設を繰り返す)移動式の建物です。神様はこの幕屋を作るにあたって、モーセに詳細な指示を与えました。幕屋内部に据える器物等の規定、幕屋で働く祭司達の準備、香の壇について、そして礼拝に必要な物品について等々。幕屋は長さが約13.2m、幅が4.4mで入り口が東側にあります。幕屋は二部屋あり、手前を聖所、奥を至聖所と呼びます。聖所には左手に金の燈台(燭台)、右手に供えのパンの机、正面に金の香壇があります。至聖所には契約の箱があります。この契約の箱にはあかしの板である十戒(神様から律法)が納められていますが、このことが「あかしの幕屋」と呼ばれる一つの理由です。この幕屋の外側は、高さ約2.2mの幕によって、東西に約44m、南北に約22m囲まれています。門は東側にあり、手前から祭壇、洗盤、幕屋の順に据えられています。幕屋はイスラエル人のエジプト脱出2年目から、イスラエルの3代目の王ソロモンが神殿を建設するまで存在しました。幕屋は移動を繰り返しました。ということはイスラエル人の礼拝の場所は変化していたということです。契約の箱もダビデ王の時代まではエルサレム(聖地)にはありませんでした。幕屋は神様がおられることの象徴です。そして人々は場所が変わっても同じ神様に礼拝をささげることが出来るのです。
② 神様がおられること(臨在)の象徴:神殿 (46-47節) →ダビデ王は神様のために神殿を建てることを望んでいましたが、神様はそれをお許しにはなりませんでした。神様のダビデに対する約束は物質的な家(神殿)を建てることではなく、彼の家(家系)が確固たるものとされること、そして後にダビデの子孫としてお生まれになるイエス様によって建てられる「霊の家」(Iペテロ2:5)についてであったようです。神殿はダビデの息子ソロモンによって建てられました。幕屋と同型で幕屋のちょうど2倍のサイズで作られました。ソロモン王の息子の代に王国は分裂し、その後神殿からは宝物が奪われ、神殿は様々なかたちで荒らされました。そしてついにバビロンによって神殿は焼き払われました。イスラエル人達はバビロン捕囚からの帰還後に神殿を再建し、その後になってヘロデ大王がこの神殿を拡張しました。ソロモン王は立派な神殿を建てましたが、彼は偉大なる神様を自分が建てたものに入れるようなことはできないと宣言しています。(I列王8:27) それは神様のご存在についての正しい理解であると同時に、神殿が神様のご存在の象徴であることを示しています。
③ 神様がおられること(臨在)の意味(本質) (48-50節) →ステパノは結論として、イザヤ書66:1-2を引用します。神殿よりも偉大な存在であられる神様を特定の領域に閉じ込めることは神様に対する冒とくであると語っています。幕屋や神殿の存在が間違っているというのではありません。しかし神様の存在は一定の場所、一定の時間に限定されません。そのようなお方のために誰が相応しい住まいを提供できるでしょうか。至るところに同時に存在される神様を前にして人間はどのように生きることが求められているのでしょうか。ステパノはモーセやモーセの律法、そして神殿を汚したのではありません。彼を訴えた宗教指導者達こそが、モーセを通じて語られた神様のことばを拒絶したのです。彼らは神殿を過度に重要視し、神様ご自身よりも高いところに置きました。神様の臨在(おられること)の意味を間違って理解した結果、神様に対する礼拝の意味を間違えて行動していたのです。

まとめ:クリスチャンは時間と空間を越えた神様のフルタイムの礼拝者である →あなたは唯一のまことの神様の礼拝者ですか。あなたは常に礼拝者ですか。日曜日だけの礼拝者ですか。教会にいる時だけのクリスチャンですか。教会における礼拝は特定の場所で特定の時間に行われますが、礼拝の生活は毎日継続するものです。神様は教会という場所だけにおられるのではありません。クリスチャンの礼拝を教会の礼拝の時間だけお受けになれば満足されるお方でもありません。まことの神様の礼拝者であるクリスチャンにとって、「礼拝の心をもたなくてもよい時間・場所」「霊的でなくてもよい時間・場所」「クリスチャンとして行動しなくてもよい時間・場所」というものは存在しません。現代のクリスチャンは聖霊なる神様の住まわれる宮(神殿)であり、何をするにおいても神様がほめたたえられるように生きることが求められています。いつどこで何をしていようとも、神様が喜んでくださる選択をする、それは礼拝の生活です。神様のご存在(臨在)を正しく理解するならば、あなたの生活の姿勢は礼拝の姿勢へと変わるはずです。そのような生活を毎日神様におささげしようではありませんか。(詩篇16:8)

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