新約聖書の最初の四つの書は福音書と呼ばれています。今回からシリーズで学ぼうとしている四番目のヨハネ伝はその一つですが、この書は他の(共観福音書と呼ばれる)三つの書とは著しく異なっています。この「霊的な」福音書と呼ばれるヨハネ伝を学ぶにあたり、導入として概略を認識し、準備していきたいと思います。
I. 著者
ヨハネの福音書は、イエス様の12人の弟子の一人で、後に使徒ヨハネと呼ばれる人物によって書かれたことは間違いありません。彼の名前はこの書には登場しませんが、“イエス様が愛された弟子”として紹介されています。(13:23 ; 19:26; 20:2; 21:7,20)
彼と彼の兄ヤコブはゼベダイの子で、イエス様から「雷の子」という名を与えられています。彼は主の弟子の一番身近な3人の一人として、主の地上におけるお働きの同行者であり証人です。イエス様の復活の後、彼はエルサレム教会の「柱」の一人となりました。彼はエペソに行くまで、同じく主の弟子であり使徒であるペテロと共に働きました。彼はこのエペソでこの書を書いたと思われます。また彼はこの地からローマ政府によってパトモスという島に島流しにされます。彼はこの福音書に加えて、ヨハネ第一、第二、第三、そしてヨハネの黙示録を記しました。
II. 時
ヨハネが執筆活動に活発であったのは晩年であること、そしてすでに共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の存在を認識していることから、共観福音書が記された後に書かれたものであると思われます。主の働きを体験してから約50年後、紀元80~90年頃と思われます。
III. 背景・状況
ヨハネは主の地上での生涯の記録について他の福音書とは違うものを提供し、結果的には共観福音書を補足し確かなものとしています。ヨハネの福音書は他の福音書には含まれていない多くの資料を提供するとともに、しばしば他の福音書に登場する出来事の理解を助け補足しています。
また福音書の中では一番神学的であると言っていいでしょう。ヨハネは初めの章を神学的序言から始めています。またこの書は物語よりも教育的資料が多く、聖霊については多くのスペースを割いています。ヨハネは主がなされた多くの奇蹟から主の正体を明確に示す「しるし」を選んでいます。またイエス様がお語りになったことに焦点が置かれ、特にイエス様がご自分についてお語りになったことを記録しています。イエス様は繰り返し“私は~である”と宣言され、ご自分について教えられました。ヨハネはすでに存在していたはずの共観福音書に頼らず、主のお働きの目撃者として霊感により記憶をたどってこの書を記していったと思われます。(1:14; 19:35; 21:24)
IV. 目的
20章31節にはこの福音書の目的が明確に記されています。先ず、この書を読む人が救いの方法を知り、神様からの贈り物であるいのちを受け取ることです。また、人となられた神であられるお方としてのイエス様の正体を確信することです。書き手であるヨハネの側からすると、人に救いの保証をし、イエス様について悟らせることが目的です。前者については“信ずる”という表現を約100回使用することで読む者の応答を促し、後者については主の7つの奇蹟(しるし)の記事を通してイエス様の真の正体の証拠を提示しています。(2:1-11; 4:46-54; 5:1-18; 6:1-15; 6:16-21; 9:1-41; 11:1-57)
20章30~31節で注目すべきことばは「しるし」、「信じる」、「いのち」です。これらのことばはこの福音書の中で繰り返し使われ、主イエス様にある救いのテーマが強調されています。イエス様の奇蹟や教えは、それを見る者、聞く者の中に信仰を芽生えさせるためのものです。
またイエス様の7つの“私は~である”の宣言は、イエス様が神であられ、メシヤ(救い主)であられることを指し示しています。(6:35; 8:12; 10:7,9; 10:11,14; 11:25; 14:6; 15:1, 5)
V.アウトライン
①神の御子の受肉(1:1-18)
②神の御子の紹介(1:19-4:54)
③神の御子に対する反対(5:1-12:50)
④神の御子による弟子たちの準備(13:1-17:26)
⑤神の御子の処刑(18:1-19:37)
⑥神の御子の復活(19:38-21:23)
⑦結論(21:24-25)
まとめ:ことばであられる神の御子、そしてみことばには 応答することが求められている
神様からみことばが与えられた(記された、伝えられた)のは、単に私たちが情報を手にするだけではありません。みことばは私たちに決断をせまり、選択を要求します。それは一人一人が個人的に応答することです。聖書はまことの神様を信じるようにと命令します。みことばを信じる者、イエス様が神の御子であられることを信じる者には、いのちが約束されています。それは罪のゆるしに伴う永遠のいのちであり、神様との関係正常化の土台の上に実現する霊的に生きることを可能とするいのちです。人の進む道はイエス様を信じていのちを得るか、拒絶して永遠のさばきを受けるかです。人はどちらかを選ばなければなりません。この永遠の選択に中立はないのです。