ローマ書8:28に登場する「益」という言葉は一般的にも役に立つことという意味を持っています。世の中は「益」を追求し続けています。でも本当の意味で利益となるのはどのようなことなのでしょうか。マタイ16:26には「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得(文語では益)がありましょう」とあります。世の中であらゆるものを手に入れたとしても、いのちを失うとしたら、そしてさらに永遠に続くいのちをいただいていないとしたら、「益」ではないと教えています。永遠のいのちの確保が最優先されるべきなのです。このいのちは真の神様から与えられるものです。このお方を抜きにするのであれば、物質的なものは無力であり、空しいのです。(詩篇33:17) 神様抜きの状況で存在するのは不確かさと想定外です。
人間は神様に造られ生かされていながら、神様を離れ、偶像に頼る道を辿ってきています。(エレミヤ2:11; ローマ1:23) しかし、真の神様に背を向けていては「益」がないのです。 永遠のいのちを価値あるものと考えるならば、そして永遠の火の刑罰を免れるべきであると考えるならば、いかなる犠牲を払おうとも、一時的なもの、物質的なものを切り捨てるべきではないでしょうか。(マタイ18:6-9)
聖書には聖書自体が「益」があると述べられています。(第二テモテ3:16) 真の神様を信じ、このお方を畏れ敬う生活、神様に頼って歩む人生は、本当に「益」があるのです。(第一テモテ4:8) 神の御子イエス様を信じたクリスチャンは、なお神様に喜ばれる姿へと変えられていくために、そして「益のため…懲らしめ」をいただきます。(へブル12:10)
クリスチャンは神様を愛している人です。同時にクリスチャンは神様のご計画の中で導かれている存在です。神様を愛し、神様に愛されている者として、生活のあらゆる状況の中で「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)ことを覚えようではありませんか。