パウロはエペソのリーダーたちへの語りかけの最後に、主にお仕えする者として大切な一つのことを述べています。パウロのそれまでの宣教の働きは、多くの場合自身で生計を立てながらのものでした。彼は人のものを貪らないだけでなく、自らが働くことにより弱者の助けとなることの模範となったのです。彼がそうすることができた原動力はイエス様の教えでした。「受けるよりも与えるほうが幸いである。」 今回はパウロとの別れを惜しんだエペソのリーダーたちが最後に受けたこの言葉に着目します。(使徒の働き20:33~38)
私たちの社会は“受けること(もらうこと)は与える(あげる)ことよりも幸せだ”という流れではないでしょうか。お金・モノ・地位・時間を確保することに人は忙しくなり、人を助け、人と分かち合い、人に譲ることには関心が薄くなっていないでしょうか。物事の多くがギブ&テイクや取引となっていないでしょうか。パウロは、前述のイエス様のことばを思い出すようにとチャレンジしています。このみことばが真実であることを経験する人は少なくとも2つのことを認識していることを確認しましょう。
I. すべては神様から与えられていることを認識している →神様によって造られた私たちは、神様によって存在することをゆるされています。(Iコリント8:6) 存在を継続するために必要なすべてのもの(食物・環境・からだのしくみ等)を与えられています。それを知ると神様に感謝することができます。与えられたものを大切にしようと思います。また与えてくださる神様に委ね頼ろうとします。同時に与えてくださっている神様のお考えや意図を考えるようになります。神様は私たちに最高のもの=イエス様を与えてくださいました。霊的に完全に貧しかった私たちを富ませるためにイエス様がご自身を与えてくださいました。その模範にならって生活するようにチャレンジされていることを認識するようになります。
私たちがもし、神様を抜きにして物事を考えるとするならば、手にしているものは自分で獲得したものであり、自分のものであるという認識になります。神様に感謝することはなく、無駄にしてしまうことも多いでしょう。自分に頼り、物事を獲得していくという姿勢になるでしょう。そこには、神様にあって“与えることが幸いである”という発想は存在しないでしょう。
II. すべては神様にささげることであることを認識している →神様からすべてを与えられていると認識している人は必然的に、与えることは神様にお返しすることであり、与える究極の相手は神様であることを認識します。(I歴代29:14; ルカ17:10; IIコリント9:7; 箴言19:17)与えることは天に宝を積み上げることであり、神様への(ノーリスクハイリターンの)投資であると考えます。神様がその行為をご覧になっておられ、神様のために(そして人のために)与えることを喜びとします。そのような人は受けること(与えられること)も、さらに与えることへの準備ととらえることができます。
まとめ:与える人は主にあって真の豊かさを経験する →聖書は人の所有権を認めています。(使徒5:4) ですから自分のものがあってはいけないという意味では決してありません。また“もらうことはあげることよりもみじめだ”と言っているのでもありません。持っているもの、与えられたものを主にあってどのように認識し、どのように扱おうとしているかが問題なのです。自身の存在、そして神様から与えられている一つ一つの物事について、神様のお考えに思いをめぐらせましょう。与えることによって最高の幸せを実現してくださったイエス様を覚え、何を神様に対して、人に対してすることができるかを考えましょう。与える祝福は、与えられている祝福を認識するところから始まります。