クリスチャンになった人には、救われる前、救われた時、救われてからという個人的な回心の歴史があります。以前にはどのような生き方をしていたか、聖書のみことば(福音)にどのようにして触れたか、みことばを受け入れてどのように変えられたか、それらを語ることができます。これを救いの証しと言います。救いは神様の奇蹟のみわざであるという点からは、どの人の救いも劇的なものであると言うことができますが、聖書の中のパウロの体験はその中でも最も顕著なものの一つと言うことができるでしょう。今回は彼の救いの体験談を学びたいと思います。(使徒の働き22:1~21)
エルサレムに戻ったパウロに対して、あるユダヤ人たちは事実とは異なる発言をし群集をあおりたて騒がせました。ローマ軍が動くことにまで発展し、パウロは兵営に連れて行かれるところでしたが、パウロは千人隊長のゆるしを得て人々に語り始めました。
I. かつてのパウロ(3~5節)→パウロはタルソという町で生まれましたが、エルサレムで当時最も有名なラビ(ユダヤ教の教師)のもとで教育を受け育ちました。彼の(旧約聖書の)律法に対する情熱は誰にも引けを取らないもので、その情熱は“異端”と認識されていたイエス様の教えを信じ受け入れた人々への激しい迫害というかたちであらわれました。この時から約20年前のあの日も彼はエルサレムからダマスコへと逃れたクリスチャンを捕まえることに躍起になっていたのです。(IIコリント11:22; ガラテヤ1:14; ピリピ3:5参照)
II. 主に出会ったパウロ(6~9節)→パウロのイエス様との面会はまさに劇的なものでした。ダマスコへの途上で彼は強い光に照らされ倒されました。これは彼にとって自身の生き様を問われる面会となりました。自分が正しいと信じてきた迫害について指摘を受け、さらにその迫害の対象がイエス様ご自身であることを知らされました。パウロはこの時、神様を本当の意味で知ったのです。絶対的主権を有しておられる方を認知したのです。パウロが神様に反抗している真っ最中にイエス様はあらわれてくださいました。イエス様との出会い、それはパウロが今まで価値在るものとしていたものがすべて崩れ去った瞬間でした。
III. 主に遣わされるパウロ(10~21節)→まことの神様を知り、今までの自身の歩みが否定されたパウロはイエス様に正しい応答をしました。「私はどうしたらよいのでしょうか」と。これは神様を知り信じ受け入れる者の正しい問いかけです。神様を目の前に置き、自分の人生の目的について考える正しい態度です。パウロはしばらく目の見えない中で過ごしましたが、自身とそして神様と向き合う重要な時間になったことでしょう。ダマスコに到着したパウロはアナニヤを通して、神様のパウロに対する目的を知らされました。(エペソ3:3-6; Iコリント9:1; IIコリント12:4参照)そしてその目的を果たすために信仰告白をし、罪を悔い改め、神様にお仕えするスタートラインに立つよう促されました。後にパウロは異邦人に対する働きをする直接的な命令をイエス様から受けました。
まとめ:神様は背を向けていたあなたをとらえ、救い、遣わされる →かつてのあなたの人生はどのようなものであったでしょうか。それがどのようなものであったのであれ、「神なき人生」は無意味であり、真実から外れた生き方の行く末は滅びであることを今あなたは知っています。イエス様に出会って以来、あなたは自身がいかに罪深い者であるか、そしてそのような自分に注がれた神様の愛と憐れみがいかに豊かであるかを知り始めたはずです。そしてイエス様の血潮による救いが、罰の免除・永遠のいのちにとどまらず、この地上において神様にお仕えする目的を含んでいることを知り始めたはずです。そうであるなら、まことの神様との正しい関係に入った者として、“主よ、私は何をしたらよろしいでしょうか”と、この世に遣わされている務めをまっとうさせていただきたいという態度で日々歩みましょう。