今回は、教会は主イエス・キリスト様と信者の会合であるという観点から主の晩餐の意義について考えたいと思います。(Iコリント11:17-21)イエス様と共に過ごした弟子たちにとってみれば、イエス様の死と復活、そして昇天の後は、物理的には「イエス様不在」となったわけです。死んだ後、人の魂は何処へいくのか、それは多くの人々にとって不可解なポイントです。幸いにも、クリスチャンは自身の復活と他のクリスチャンとの再会の望みをいただいています。そして、イエス様が肉体をもって一緒に居られるわけではありませんが、霊において一緒に居られることを知っています。そして特に主の晩餐において、クリスチャン同士で集まることにおいてイエス様の臨在を覚えることができるのです。
主の晩餐において、私たちは教会の本質を経験することになります。当時のコリントの教会は多くの問題を抱えていました。その問題の原因は個々が神様の恵みによって救われたことを忘れ、傲慢になっていたことにあると思われます。ですから彼らも教会とは一体どのような集まりであるのかを理解する必要があったのです。主の晩餐の意義の一つは、①主の御体を象徴することにあります。(Iコリント11:24)教会は救われたクリスチャンが団体として主に連なり主の御体に加えられているのです。次に、②主の教会を表すことにあります。(Iコリント10:16-17)そして、③主の血に与り、主の体に与ることにあります。(エペソ1:7, 22-23)私たちはイエス様の血によって罪の清算をしていただきました。それにより、神様と分離されていたものが結合されたのです。そしてイエス様の体に構成されたのです。最後に、④主との一体性を表す幸いな集会にあります。これらのことを覚え主の晩餐に臨みたいと思います。