神様からの愛の手紙である聖書は約束の書です。その内容が真実でないとするならば、また信ずるに足るものでないとするならば、クリスチャンの信仰は無意味であり、信仰生活は無駄なものとなってしまいます。クリスチャンは(理屈で理解したのではなく)みことばをそのまま信じたことにより、みことばが真実であること、信じるに足るものであることを知りました。(そして知り続けています。) 信じたことにより確信へと到達したのです。信じたので、それが真実だとわかるようになったのです。今回は神様の約束の一つである救いが確かなものであることについて学びます。(ガラテヤ3:15~18)
ある人々はこう主張します。“神様はアブラハムとの間で契約を交わされたが、後の時代にモーセを通して律法が与えられたので、救いの方法は変更されたのだ”と。パウロはその答えとして今回の箇所で、神様がアブラハムと交わされた契約は、後に与えられた律法より勝るものであることを述べます。
I. この約束を社会の事例で考えてみましょう (15節)→パウロは、「兄弟たち」と呼びかけ、人間同士の約束事の例を挙げます。社会における契約は両者の承認と同意に基づいて成立します。そして両者は契約維持のためにその契約内容を守ることが求められ、基本的には契約破棄や内容変更はおこなわれません。
旧約聖書における契約では、動物が二つに切り裂かれ、契約する両者がその間を通り過ぎ誓い合いました。神様とアブラハムとの契約においては、一方的なものであるため、神様のみが通り過ぎられご自身に誓われたのです。(へブル6:13-15)
人間同士の約束でさえそれなりの重みがあるとしたら、神様がアブラハムとの間で交わされた約束は当然重いものであると考えることができます。
II. この約束はアブラハムとイエス様を通してのものです (16節)→パウロが引用している創世記12:7の「あなたの子孫」という言葉は(単数形でありながら)集合的意味をもっています。しかし創世記3:15等の箇所では確かに、アブラハムにとって一番偉大な子孫、つまりイエス様を指していることがわかります。
アブラハムに対する神様の契約は彼の子、孫に受け継がれていきました。(創世記12:3,7; 13:15-16; 15:5, 18; 17:8; 22:16-18; 26:3-4; 28:13-14) これはアブラハムの子孫に対するものでありますから、アブラハムが死んだり、律法が登場してきても無効になることはないのです。時を経て贖い主の到来によりこの契約は具体化しました。それまでに与えられていた律法は単にその合間で機能したに過ぎないのです。
III. この約束は律法によって変更されることはありません (17節)→パウロはここで15節のたとえを適用します。契約についての取り扱いが人間関係においてそのようで(真実で)あるならば、神様と人との関係においてはなおさらであると。これは真実な「神によって」なされているのであると。一方的で、永遠で、止むことのない、そして無条件であるこの契約は、神様によって承認されおり、そこには継続的権威があると。ですからイスラエル民族の出エジプト後に与えられた律法に勝ったものであると。
IV. この約束は相続の恵みを実現しました (18節)→この約束は‘救いの相続’としてもたらされました。これは神様の恵みにより永遠の贈り物としてアブラハムに与えられ、後の時代を生きる者(信仰者)に与えられたのです。律法(行い)と約束(恵み)との間に中立はありません。この二つの原則は救いの方法において互いに排他的なもの(相いれないもの)なのです。
まとめ:約束に忠実な神様の救いの道は確かなものである →アブラハムになされた約束は二千年の時を超えてイエス様において具体化しました。そしてさらに二千年の時を超えて今を生きるクリスチャン一人一人に適用されました。律法(行い)ではなく、約束(恵み)を信仰によって受け取ることによって救いの祝福が与えられたのです。イエス様を救い主と信じることにより、罪のゆるしと永遠のいのちをいただきました。その信仰から始まったクリスチャンは、さらにみことばを吸収し、蓄えることにより、信じたお方が確かなお方であり、信じた事がらが確かであることを知ることができます。その継続によりクリスチャンの信仰は豊かなものとなり成長へと導かれるのです。(IIテモテ1:12)