今年もクリスマスがやってきます。しかし、日本人が祝う(過ごす)クリスマスの殆どはキリスト様不在です。日本には独特なクリスマス文化があります。たとえばクリスマス・ケーキやチキンを食べるなど。とにかく美味しいものを食べられる理由(言い訳)があればそれでいいということなのでしょうか。いずれにしても、再び意味を知ることなくクリスマスを迎えるとは何と残念なことでしょう。
キリスト様がお生まれになったことを祝う、それがクリスマスの中心ですが、なぜ祝うかと言えばそれは(その一つは)、神が人となられた、そしてお生まれになったキリスト様によって、神がどのようなお方であるかが、あらわされたからなのです。今回は“神があらわされた”ことの驚くべき事実について学びたいと思います。
I. ことばなるお方の受肉 (14節前半)
ご性質において永遠不変のことばなるお方が人となられました。無限のお方が有限に、永遠のご存在であられるお方が時間の制約の下に、見えないお方が見えるお方に、そして超自然のお方が自然のお方になられたということです。しかし、それでいて神でなくなったのではありません。ことばなるお方は、人の肉体の中における神となられたのです。ことばなるお方の受肉はキリスト様が人の弱さを分かち合われた瞬間でもあります。このお方の受肉は存在自体の始まりを意味するものではありません。このお方の体は神の存在の位置(場所)となったということです。ことばなるお方は人間たちが存在する中においての、神の存在の究極的表現そのものとなられたのです。
II. ことばなるお方の栄光 (14節後半、16~17節)
肉体を取られ、あらわれてくださったことばなるお方は栄光で満ちておられます。使徒ヨハネたちはその素晴らしさを目に焼き付けたのです。この栄光にはキリスト様の行われた奇蹟や十字架刑、そして復活が含まれるでしょう。主の姿が“変貌”した場面も含まれるでしょう。(マタイ17:2-8)ことばなるお方の栄光には肉体的なことのみならず霊的なことも含まれます。神のご性質である恵み、善良、憐れみ、知恵、真実なども。いずれにしてもこのお方の栄光は人からの敬意と賛美に相応しいものです。
ことばなるお方は父なる神様の「ひとり子」であられます。それは他に類のない(唯一無比の)お方であるということです。このお方は父なる神様との特別な親密な関係にあります。それゆえこのお方にしかできない神の啓示の方法があるのです。
このお方の栄光には恵みとまことが満ちています。愛の神様はご自分の契約(約束)に対して、また契約の対象である民に対して忠実であり真実であられます。ことばなるお方の受肉は神様の人に対する御思いの表現として最高のものであり真実の理解を与えるものです。このお方の恵みは豊かなものです。信ずる者たちへは特にそうです。(エペソ1:5-8; 2:7)神の恵みは、神の律法を行うことができないと知った者への神の態度(ご意志)を示すものです。これはキリスト様のご人格と歩みにおいて示されました。またこのお方のまこと・忠実さはモーセに勝るものです。(へブル3:5-6)
III. ことばなるお方についての証言 (15節)
バプテスマのヨハネはことばなるお方について証言しました。このお方は、ちから・立場・時間のすべてにおいてヨハネの「先に」行っておられ、ヨハネに勝るお方です。バプテスマのヨハネの証しは、受肉されたことばなるお方の永遠性について述べる使徒ヨハネのことばを確かなものとしています。
IV. ことばなるお方の啓示 (18節)
この節で使われている「神」はからだや容姿ではなく、神としてのご性質(神性)です。神様は存在されないから見えないのではなく、人がこのお方を認知できないのです。しかし、ことばなるお方において神の啓示は充分になされました。父なる神様と(受肉前から)継続的に親密な関係であられた神の御子が、神に関する真実(神の知識)の説明(解説)をされたのです。キリスト様のご生涯とことばは単に宣言ではなく、神様の人に対するご意志と目的を説明するものなのです。
まとめ: 神をあらわされた ことばなるお方は 神である
ことばなるお方であられるイエス・キリスト様は、神を示すためにこの世界においでになりました。このお方の先駆けとしてバプテスマのヨハネは証言しました。このお方は栄光に満ちておられます。このお方は神がどのようなお方かを示されます。そしてそれでいてこのお方ご自身が神であられるのです。ことばなるお方がこの世界に来られた意味を知る時、肉体をお取りになったことの意味を知る時、クリスマスにおいて一番大事なことは、本当の満足と確かな希望と永遠に続く喜びとを人間に対して可能とされたキリスト様ご自身をほめたたえることであるとわかるのです。あなたがそれを知っているのであれば、クリスマスの過ごし方を知っている人であり、幸いな人です。