まことの神様との関係において、また神様が提示しておられる救いの方法に対して、“中立地帯”は存在しません。神様によって造られた人は、好むと好まざるとにかかわらず、神様に対して意思表示を明確にしなければならないのです。信じること、救われることを選ぶか、信じないこと、さばかれることを選ぶかです。これは一人一人に突き付けられた問題です。曖昧にはできませんし、もしそうすることを望んでも、神様は“第三の選択肢”を与えてはくださいません。これは厳粛なことです。人が人生において真剣に考え、取り扱わなければならないことです。今回は、人の永遠を左右する神の救いとさばきについて学びたいと思います。(ヨハネの福音書3章17~21節)
I. 救われること
それは御子を遣わされた神の目的である
それは御子を信ずることによってである
それは光を愛し、真理を行うことによってあらわされる
II. さばかれること
それは御子を遣わされた神の目的ではない
それは御子を信じないことによってである
それは光よりもやみを愛することによってあらわされる
17節: 神様は御子イエス・キリスト様を、権威ある代表としてこの世界にお遣わしになりました。ここに神様の、罪のある人間に対する愛の意図があります。イエス様は、人に対して罪を宣告するため、罰するためではなく、助けるため、救うためにおいでになったのです。(ヨハネ12:47)
18節:「信じない者」は継続的にイエス様を信じない状態にある人のことです。イエス様のお名前を信じない人は有罪判決の下にすでにあるのです。イエス様を信じるとは、単に頭で福音(聖書が伝える救いの方法)に同意するのみでなく、主であり救い主であられるイエス様に信頼し、委ねることを含みます。信じる人は新しく生まれさせられ、新しい性質をいただきます。(v.7)イエス様に対する心が変えられ従う人になります。人がさばかれる(死ぬ、滅ぼされる、罰を受ける)のはイエス様を信じないからです。
19-21 節:神様からの光に対する人の応答には相違があります。ある人は、その罪の性質ゆえに、また罪のふるまいゆえに光に近づこうとはしません。自身の真の姿が暴露され、有罪とされるのを嫌うからです。それは人の中にプライドがあり、罪を認めるという恥ずかしめから逃げようとし、罪の責任を突き付けられることを避けようとするのです。
しかし、「真理を行う者」は光に近づきます。この人は、神様が指摘された自分の罪と向き合い、謙って罪を悔い改め、ゆるし(救い)を経験した人です。この人は神様の前に真実によって生きます。それは自分が褒められるためではなく、神様が讃えられるためです。この人は神様とつながり、神様のちからによって変えられたことを知っているのです。
あなたには、神様の前ですでに有罪と認められているという前提があります。それは、神様からのさばきが迫っている、危険が迫っていることを意味しています。ですから聖書は、十字架に挙げられた(架けられた)イエス様を見上げるようにと勧めているのです。あなたの身代わりとなって死なれたイエス様に対する信仰によって、その信仰によってのみ、救われること、新しく生まれることは可能です。永遠の命の獲得は可能です。
まとめ:神様はあなたを救うことも さばくこともできます イエス様を信じて救われるほうを選びましょう
神様はあなたの人生、そして永遠を握っておられます。あなたには、本当は「さばかれる」選択肢しかなかったのです。それにもかかわらず、神様はあなたが「さばかれない」選択肢を準備してくださいました。神様は、あなたが罪のある人間であるがために、死んで永遠に罰を受けることをお望みにはなっておられないのです。神様が準備された救いの選択肢を選ぶのはあなたの意思決定によります。神様は「無理矢理に」あなたを救うこともさばくこともなさいません。ただあなたの決断、つまり救いの方法となられたイエス様を信じるか信じないかに基づいて粛々と取り扱いなさいます。イエス様を信じて救っていただきましょう。