「腑に落ちない」という表現があります。辞典には「“腑”は“はらわた”、“臓腑”のこと。“腑”は“考え”や“心”が宿るところと考えられ、“心”“心の底”といった意味があるため“人の意見などが心に入ってこない(納得できない)”という意味で、“腑に落ちない”となった」とあります。
イエス様の「私はいのちのパンである」との宣言は、多くの人々にとって「腑に落ちない」ものでした。イエス様の語られたことばは彼らの心に入ることがなく、その効果があらわされることもありませんでした。しかし、ある人々は「納得」しました。そしてイエス様を信じました。今を生きる私たちクリスチャンもそうです。なぜでしょうか。そこには神様のお働きがあるのです。
今回と次回の箇所(ヨハネの福音書6章60~71節)では、“いのちのパン”のメッセージに対する弟子たちの反応を見ます。ここでの弟子たちとは、12弟子だけではなく、ある程度イエス様についてきた人々を含んでいます。彼らの多くにとってイエス様のお語りになったことは、あらく、乱暴で、耳障りなものでした。彼らはそれを感謝して(評価をもって)聞くことができませんでした。
彼らがイエス様のことばを不快に思い拒絶した理由がいくつかあります。①彼らの関心は霊的現実よりも目の前の利益(食べることや奇蹟、政治的な救世主)にあったこと。②彼らが自身の考えや主張を放棄してイエス様に対する信仰をもつことができないこと。③イエス様がモーセよりまさっておられ、天から来られたお方で、いのちをお与えになることができると主張なさったこと。④“肉を食べ、血を飲む”のたとえ。
このような人々が、イエス様の昇天(天にのぼっていかれること)を見たらどうなるのでしょう。イエス様は昇天までの間に、十字架を通らなければなりません。その十字架はユダヤ人にとってイエス様に対する“つまずき”を増すものとなりました。(Iコリント1:23)
しかし、イエス様の究極の辱めは、イエス様の栄光が際立つものです。それは御子イエス様が、この世界が始まる前から父なる神様と共有された栄光へとお戻りになられるプロセスなのです。(ヨハネ17:5)
「見よ わたしのしもべ(イエス様)は栄える 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」(イザヤ52:13)
イエス様はこの時 御霊(聖霊)をすでにお受けになっておられました。御霊がイエス様を信ずる人にいのちを与えるのです。(何かを食べることによっていのちを得るのではありません。)イエス様のことばは、この聖霊が生み出すものであり、いのちを生み出すのです。
イエス様は本当の信仰を持っている人と、表面的な人とを見分けられます。自然の人は自己中心的です。自己中心的な人にとって、イエス様を信じないことは自然であり、自身を神様に委ねることは不可能です。人が信じるためには、聖霊なる神様がその人を呼び起こし、ちからをお与えになることが必要です。
多くの人々はイエス様のもとを去って行きました。彼らが求めているものをイエス様は提供せず、イエス様が与えようとされているものを彼らは受け取らなかったからです。
I. 神様のお働きなくしては だれも救われない
人は聖書のことばを拒絶し、結果的にイエス様を拒絶します。
「ひどいことば」(60節)
「つまずく」(61節)
「信じない」(64節)
「来ることはできない」(65節)
「イエスとともに歩かなかった」(66節)
II. 神様のお働きにより 人は救われる
人は聖霊によって活かされます。
「いのちを与えるのは御霊」(63節)
「父のみこころによる…来る」(65節)(37, 44節)
まとめ:神様の救いにおける主権が 私の上にもあったことを感謝
聖書のことばを最初から素直に受け入れることができた人、時間をかけて納得することが出来た人、様々ではあると思いますが、いずれにしても聖書の霊的理解に到達することができたことは本当に感謝なことです。父なる神様が御子イエス様にお与えになった者(賜物)の1人に加えられたことも本当に感謝なことです。神様はご自分のもとに私を引き寄せてくださり、またそうすることを御心とされたのです。神様のお働き、救いのみわざを覚えて感謝し賛美します。