“百聞は一見に如かず”ということわざがあります。人から何度聞くよりも、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかるという意味と、人から聞いた話は間違っているかもしれないので自分で見て確かめたほうがいいという意味があるようです。英語では、見ることは信じることだ、となります。
イエス様によって目が見えるようになった男性の記事はまったく逆のことを私たちに教えます。聖書に書かれていることの中には、私たちが見ないで(或いは見る前に)信ずる必要のあることがあります。イエス様の奇蹟はその一つです。見たから信ずるのではなく、信じたからそれを見たかのごとくわかるようになるのです。あらためて信ずることについて考えてみましょう。(ヨハネの福音書9章35~41節)
I. 信ずる対象
イエス様: イエス様は目が癒された男性に再び会いに来られ、「あなたは人の子を信じますか」と尋ねられました。「人の子」とはイエス様が神であられることを示す称号です。イエス様の問いかけは、イエス様に自身を委ねることを求め促すものです。この問いかけは一人一人にされています。またされなければなりません。神であられ、人となってこの世界に来られたイエス様を信じるか信じないかは、その人の永遠を左右する重要なことがらだからです。聖書は“何を信じても同じ”とか“とにかく何かを信じていることが大切”とは教えていません。イエス・キリスト様だけが神であり、救い主であって、このお方を信じることによってのみ真の幸いがあるのです。
II. 信ずることの意味
①自身の姿を知る・認める: イエス・キリスト様を信ずることにおいては、まず自分の真の姿を正しく知ることが必要です。39節の「目の見えない者」とは、神様の前では自分が(目の見えない)あわれな人間であることを知っている人のことです。自分は罪人で、闇の中を歩いており、その先は滅びとさばきであることを認めている人です。イエス様を信ずるためには、自分が救われなければならない存在であることを知らなければなりません。
②自身をイエス様に明け渡す: 自身の真の姿を認めた人は、イエス様に助けを求め、イエス様のお命じになることに従います。罪があり、その行く末は絶望である人間のために、イエス様は助かる道を準備されました。自ら人となってこの世界に来られ、十字架で身代わりとなり死なれました。罰を受ける必要のない、罪のないお方が、罪のある人間のために死なれたのです。イエス様を信ずるとは、このお方の死が自分のためであった、自分を助けるためであったと認め受け入れ、イエス様に感謝することです。“神様の前で自分は罪人で、この罪を自分ではどうすることもできません、イエス様助けてください”とイエス様にお委ねすることです。
III. 信ずる結果
①罪のゆるしと永遠のいのち:イエス様を信ずる人は、その瞬間に罪をゆるしていただくことができます。罪があるところには罰がありますが、罰を受けなくてもよいということです。罪があるとイエス様(神様)と交流することは出来ないのですが、その障害が取り除かれるということです。それだけでなく死後、永遠にイエス様と生きることができる約束が与えられます。もう死を恐れる必要がなくなるということです。イエス様を信じた人が“次に生きる世界”には、悪いものが何一つありません。いつまでも幸いな状態で生き続けることができるのです。これが信ずる人に与えられる永遠のいのちの祝福です。
②真実を土台とした生活: イエス様を信じた人にはなおこの地上での生活があります。まことの神様を知り、まことの救い(人生の解決)をいただいたクリスチャンは、(自分のためではなく)自分を生かし、また自分を救ってくださったイエス様のために生きる、また生きようとする生活に変えられます。神様のことをもっと知りたい、神様が喜ばれることをしたいと思って生活するようになります。それはイエス様を信ずることによって、人生における価値観が大きく変えられ、人としての本来の生き方ができるようにされたからです。
まとめ: イエス・キリスト様を自分の救い主として信ずる人は、本当の幸いをいただき、その救いが確かなものであることを知ることができる
聖書は簡単に言えば4つのことを説明しています。神、人、十字架、信仰です。神様はこの世界を造られた唯一のまことの神様です。人は、神様によって造られましたが、神様に背き、罪の性質を持つ者となりました。罪の中で生き、罪の中で死んでいくあわれな人間のために、(そして永遠の罰を受けなければならない人間のために)神様は、救い主イエス様をこの世界に送り、身代わりの十字架刑によって死なせ、三日目に復活させてくださいました。イエス様の死と復活は自分のためであったと信ずる人には救い(罪のゆるしと永遠のいのち)が与えられます。
イエス様を個人的に信じた人は、本当のことを知っている人、真実がわかるようになった人です。自分の罪の問題がイエス様によって処理され、解決し、もはや罰せられることはないこと、自分の生きる目的・動機・喜びは救い主イエス様にあること、そして死後の永遠に続く幸いが確かであることを知っているのです。なぜなら神様は、イエス様を信ずる人に、それがわかるようにしてくださるからです。