人は色々な理由で泣きます。悲しく、悔しくて、うれしくて、感動して。今回の箇所ではイエス様が涙を流されます。「イエスは涙を流された」は聖書の中で一番短いとされる一節です。イエス様の涙にはどのような意味があるのでしょうか。その涙は何ゆえでしょうか。今回はイエス様の流された涙から発信される恵みの福音を味わいたいと思います。(ヨハネの福音書11章28~37節)
イエス様はマルタに続いてマリヤにもお会いになりました。マリヤもマルタ同様、兄弟ラザロの死に対する悲しみをあらわし、自身のイエス様に対する信仰を告白しました。イエス様は彼女の涙、そして他のユダヤ人たちの涙をご覧になり、「憤りを覚え、心の動揺を感じ」られました。この状況においてイエス様は怒りを覚えられ、心を騒がされ、涙されたということです。
I. イエス様の涙は人の罪ゆえである
イエス様は、罪と罪が人にもたらす現実について涙を流されました。罪は自身を苦しめ、他人を苦しめ、そして神様を苦しめるものです。人はあらゆるかたちで罪の結果を受け、究極的には死の痛みと苦しみを受け、永遠のさばきを経験しなければなりません。その悲惨さを誰よりも知っておられるのがイエス様です。
またイエス様は、ご自分を信じない人の不信仰についても涙されました。人々は、イエス様には人を(いつでも)よみがえらせるちからがあること、そして死は一時的なものであることを信じてはいませんでした。それゆえ、真実を知らない一般の人々と同じようにふるまっていることについてイエス様は涙されたのです。(Iテサロニケ4:13)
II. イエス様の涙は人への愛ゆえである
イエス様の涙は罪に対する怒りのあらわれであると同時に、自らを縛っている罪に対して無力である人々への憐れみのあらわれでもあります。罪があるところには結果があります。神様は罪のある者と交わることはできません。それでいてイエス様は“それはいたしかたない”として、罪のある人間を切り捨て処理されるのではなく、そのような人々の状態の回復、救いを強く願われているということです。イエス様は、罪人をあきらめておられないからこそ、心を痛められ、騒がされ、涙を流されたのです。(へブル4:15)
まとめ:イエス様の涙は 罪深い人間をなお愛されるゆえに流される
私たちの罪は究極的には神様に対するものです。私たちはどれほど、罪ゆえに神様を怒らせ、悲しませ、そのお心を騒がせたしたことでしょうか。どれほど不信の罪ゆえにイエス様を苦しめたことでしょうか。どれほど神様から独立しようとする自分勝手な態度で悪態をついてきたことでしょうか。イエス様はそれら一つ一つに涙されたのではないでしょうか。その上で、イエス様はなお私たちを顧み憐れんでくださいます。驚くべき神様の愛です。なお神様は私たちの幸いを祝福を望んでおられるということです。私たちはどれほど自身の罪とその結果の悲惨さを思い涙してきたでしょうか。そのような自分をご覧になり、心痛められたイエス様のことをどれほど考えてきたでしょうか。神様の正しさと愛に満ちたイエス様の涙を黙想しましょう。