人がまさに亡くなろうとしている瀕死の状態、或いは息を引き取って亡くなる瞬間のことを臨終と言います。また臨終の前の期間を臨終期と言い、危篤と同じ意味で使われます。「臨」は「その時に直面する」という意味を持ちますから、臨終とは命の終わりに直面することを意味します。その先がわからない人、その先の確かな準備ができていない人にとって、この瞬間は恐れと不安でしかないはずです。
今回登場するラザロも、臨終を経験した人です。しかしイエス様の奇蹟のみわざによって、復活も経験しました。イエス様はこのみわざ(しるし)によって、(他の奇蹟がそうであるように)ご自分が神の御子であることを示されました。今回はこの福音書の7番目の奇蹟であるラザロの復活の記事から、このみわざに伴うことがらに着目して学びたいと思います。(ヨハネの福音書11章38~44節)
I. 奇蹟のみわざには、イエス様の感情が伴っている(38節)
罪ゆえ 人が苦しまなければならないことに対して:イエス様は前の段落でそうであったように(33節)、「憤り」を覚えられました。一つは罪がもたらす、致命的な結果のためです。人の罪は負のものしかもたらしません。罪があるところに、悩み、悲しみ、苦労が存在します。人は神様に背を向けたため、個人としても社会としても罪に苦しむのです。そして死の先にある罪の結果(報い)は永遠の刑罰です。イエス様は、人が自らその道を選んだのではあっても、なおその現実に心を痛められ怒られたのです。(ラザロは信仰者ですが肉体の死については例外ではありません。)
ご自分とご自分のちからを信じないことに対して:もう一つのことは、マルタやマリヤをはじめとして周囲にいる人々の不信仰に対して「憤り」を覚えられた点です。マルタの39節のことばは、彼女が、イエス様がすぐにでもラザロをよみがえらせることができるとは信じていなかったことをあらわしています。イエス様を信じているクリスチャンではあっても、その“信じ方”が適切ではない場合があります。“なんでも、いつでもおできになる”イエス様を前にして、私たちが世間一般の人々のように失望しているとしたら、イエス様はどんなに悲しまれるでしょうか。
II. 奇蹟のみわざには、人の信仰による行動が伴っている(39~41節前半、44節後半)
人には神のみわざに参加する特権が与えられている:イエス様は、ラザロが葬られている墓の入り口の石を取りのけるように言われました。(マルタはすぐに応じられませんでしたが)人々は従いました。彼らには理解できないことでした。イエス様がラザロをよみがえらせるために、人の助けを必要とはしません。しかし、イエス様はあえて(彼らができることを)させてくださいました。彼らが理解はできなくても、信じて行動することをイエス様は望まれたのです。そのようにすることで、イエス様は私たちをそのみわざの一部に加わらせてくださるのです。(2章のカナの婚礼の場面、9章の生まれつき目の見えない人が癒された場面、21章の大漁の場面でイエス様が人にさせてくださったことを考えてみましょう。)
人には神の栄光を見させていただく特権が与えられている:イエス様がなさろうとしておられることを、信じて委ねることができないマルタに対して、イエス様はこれから起こることによって神の栄光を見ることになると約束されました。イエス様にとって、ラザロの復活以上に重要なことは、この奇蹟を通して人々がイエス様の正体を知り、神様をあがめることです。そこにいた人々は皆イエス様の奇蹟を見ました。しかし皆が神の栄光を見たわけではありません。神の栄光は人が信仰によって見るものだからです。信仰によって神のみわざに参加することによって見るものだからです。信仰者はそれが神様から出たことであることを認識し神様をあがめるのです。
III. 奇蹟のみわざには、イエス様の祈りが伴っている(41節後半~42節)
御父に対する祈り:イエス様は「父よ」と直接的に父なる神様にお祈りをなさいました。
信仰による祈り:イエス様のここでの祈りは、イエス様がすでにラザロのいのちについてお祈りされていたことを示すものです。ですからイエス様は願いではなく、感謝の祈りを父なる神様にしています。すでに願いは聞かれているという信仰の祈りです。
実を結ぶ祈り:イエス様の祈りは御心を達成するものです。奇蹟へと続くこの(公の)祈りによって人々の意識を、御子イエス様と父なる神様との関係に向けさせておられるのです。そしてイエス様が単独では事をなさらないこと、父なる神様の御心に完全に依存され、従われることを示しておられます。それを人々が確認する時に、父なる神様がイエス様を遣わされたことを信ずることができます。ラザロの復活のみわざは、イエス様がメシヤ(救い主)であり、神の御子であることを証明するためのものです。
このようにしてラザロはよみがえらせられました。神様の創造のちからは、腐敗し朽ちていく過程を逆にしました。死んだ者が墓の入り口に向かって出て来る。そのようなことは神様にしかできません。このことは、やがてクリスチャンが経験する復活(栄光のからだへの変化)の予告編です。
まとめ: よみがえりであられ、いのちであられるイエス様に栄光あれ
死に勝利されよみがえられたイエス様は、私たちを救い、よみがえらせることがおできになる唯一のお方です。そのみわざには私たち罪ある者たちへの愛と憐れみのお心があらわされています。また新しいいのちを与えられた私たちは、神様のお働き・ご計画の一端をお手伝いさせていただくことができます。私たちはイエス様を信ずるがゆえ(それが理解を超えたものであっても)イエス様の導きとご命令に従うのです。そのようにする時に神様の栄光(素晴らしさ)を見させていただく祝福に与ります。この世界のすべての問題を超越し、解決を可能とされるイエス様によって、“死んでも生きる”者とされました。ご自分でよみがえることがおできになるお方、そして私たちをよみがえらせることがおできになるお方の尊いお名前を賛美致しましょう。