上を目指すスポーツ選手はきっと日々厳しい練習をしていることでしょう。良い記録のため、良い成績のため、チームへの貢献のため、彼らは貪欲なまでに自分を“いじめる”のです。彼らは現状に満足しません。常に成長、向上を求めてはげむのです。
あなたはクリスチャンとしてどのような位置におられるでしょうか。自分の霊的な状態についてどのように評価しておられるでしょうか。上を目指していますか。あなたは成長し続けていますか。現状に満足していませんか。今回は神様が(成長を望む)あなたに何をお望みになっておられるかを学びたいと思います。(ヨハネの福音書12章20~26節)
イエス様に会いたがっているギリシヤ人たちについて話したアンデレとピリポに対して、イエス様は、ご自分が栄光を受ける時が来たことをお語りになりました。それは、イエス様が死なれる時、復活される時、そして高く揚げられる時が来たということです。
I. イエス様は実を結ぶ者になることを望まれる(24節)
イエス様は、ご自分が死ぬことによって、多くの人の救いを実現しました。それによりイエス様は栄光をお受けになりました。これがイエス様の模範です。
私たちもイエス様のように実を結ぶことができるとしたら“死ぬ”ことが求められます。それは何らかの犠牲を払うことを意味するかもしれません。社会的な評価を失うことを意味するかもしれません。(種が土の中で違うものへと変化するように)変わることに委ねることを意味するかもしれません。“死なない”でそのままでいることは楽かもしれません。しかしそれでは成長も、何かを産み出すことも、周囲に祝福を提供することもないのです。私たちはクリスチャンとして成長し、周囲の人々を助ける側になり、主に喜ばれる者となっていく必要があります。
II. イエス様はいのちの豊かさを持つことを望まれる(25節)
イエス様は、父なる神様の御心を優先され、ご自分のいのちを差し出されました。これがイエス様の模範です。
もし私たちが自分のいのちを愛するならば、それは神様の主権を否定し、自分自身を偶像化していることになります。神様のお考えよりも自己実現を優先させているということです。その結果は自分を滅ぼすことになります。確保しようとするいのちそのものを失うことになるのです。(肉体的いのちを神様のために使うことができなくなります。)
もし私たちが自分のいのちを憎むならば、それは優先事項を自分の外のものに置いていることになります。それは人生において、キリスト様が主人となっているということです。その結果は霊的活力のみなぎる生活です。神様の前にあって価値のある、永遠に意味のある歩みの実現です。
III. イエス様は仕える者になることを望まれる(26節)
イエス様は究極の奉仕者としてこの世界に来てくださいました。私たちの贖いの代価となられたのです。これがイエス様の模範です。牧者であられるイエス様は、羊たち(私たち)の先頭に立って行かれ、私たちにお求めになることをまずご自分が実行されました。
イエス様に仕える人は、イエス様に従う人です。弟子としてイエス様にお仕えしようとするのであれば、イエス様についていかなければなりません。
またイエス様に仕える人は、イエス様と共に歩む人です。イエス様が行かれるところをたどるのです。
そしてイエス様に仕える人は、イエス様の祝福に与る人です。(ヨハネ17:24)イエス様と栄光を共有するのです。
イエス様にお仕えすることへの変化は、自分に焦点を合わせるところから(神様の啓示そのものであられる)イエス様に焦点をあわせることへの変化です。神様は仕える者を貴い者として評価してくださいます。
まとめ: 神様はあなたの霊的成長を望んでおられる
あなたは、成長を続けているクリスチャンでしょうか。成長の必要があるという認識はあるでしょうか。もし成長が必要であるならば、そのために何か変える必要があるのではないでしょうか。みことばを学ぶこと、祈ること、奉仕をすることにおいて何かすべきことはあるでしょうか。“与えられる”ものを受け取るだけではなく、自分から“獲得する”ために動く必要はないでしょうか。神様はあなたが現状に満足することなく、成長し続けることを望んでおられます。あなたも同じことを願いますか。あなたが霊的に成長するならば神様は喜ばれ、神様はあなたを祝福してくださいます。