神の存在を信じるのであれ、信じないのであれ、それらはその人の世界観です。これらはどちらも証明されたゆえの信仰ということではありません。クリスチャンは神の存在を目で確認したから信じているのではありません。イエス様を見たから信じているのでもありません。しかし聖書のことばがそれらを信じることができる十分な情報を提供しました。そしてある時、人は神の存在、そしてイエス様が神であられることを信じたのです。イエス・キリスト様は神の御子であられることは、キリスト教信仰の基本ですが、この真実を今回再確認したいと思います。(ヨハネの福音書14章8~11節)
イエス様の弟子であったピリポは現実主義者のようです。彼にとってイエス様の説明はなお漠然としていて意味をなしていないようでした。その彼がイエス様に“父なる神様を見せてほしい”とリクエストしたのです。人にとって最高の経験の一つは、神を見ること、かもしれませんが、彼はその経験が得られれば満足できるようでした。彼は、旧約時代に生きた何人かの人々が体験したようなことを望んだのかもしれませんが、そのリクエストは、残念ながら、イエス様ご自身が父なる神様を示すためにこの世界に来られたことについての無知を示すものでした。彼には、イエス様について信じる必要のあることが少なくとも三つありました。
I. イエス様を見ることは、神を見ることであると信じなさい(9節)
イエス様は、ピリポの正直さをお喜びになられたかもしれませんが、同時に彼の理解の鈍さに悲しまれたでしょう。彼は、イエス様と父なる神様との関係について十分に掴んではいませんでした。「長い間」ご自分と過ごしてきたピリポのそのような理解を前にイエス様は嘆かれました。単なる物質的イメージやかたちによっては、神を十分に説明することはできません。神は人格をお持ちです。それゆえ、神についての知識を分かち合うためには、人格をもっておられる方がそれをするのでなければなりません。イエス様がそのお方です。イエス様を見ること、知ることは、神を見ることであり、知ることなのです。(ヨハネ12:45)
II. イエス様と神との一体性を信じなさい(10節前半、11節前半)
イエス様は、再びご自分と父なる神様が一つであられることをお語りになりました。(ヨハネ10:30)“お互いが同時にお互いの中に存在する”ということを説明するのは困難です。しかし、これがイエス様と父なる神様との関係の現実です。御子イエス様は人格を持ったお方として神を表現することができるお方です。このお方が“神以下”であることはありえないことです。イエス様はことば(教え)と行動(働き)において父なる神様と完全な一致を保たれていたのです。(ヨハネ10:38; 14:20; 17:21)
III. イエス様のみわざは、神のみわざであると信じなさい(10節後半、11節後半)
イエス様と父なる神様が一つであられるならば、このポイントは必然です。(ヨハネ5:19; 8:28; 12:49) イエス様はことばと行動によって、神のご性質と現実をお示しになります。イエス様のことばには神の真実が満ちています。そして神のちからはみわざを生み出します。そのみわざは、イエス様と父なる神様との関係を証明し、イエス様が神であられることを説明します。(ヨハネ5:36; 10:25, 38)
まとめ: イエス・キリスト様を信ずることは、まことの神様を信ずることである
神様が“神を知らなかった者たち”にご自分を示すことをお望みになられたことは本当にありがたいことです。人は神様によって創造されてまもなく、自ら神様を遠ざけました。それが人の罪の歴史の始まりです。それが自滅行為であることも知らずにです。しかし、神様はそのような人々をなお追い求めてくださいました。ご自分の御子を遣わすことによってご自分をお示しになりました。イエス様を通して、神の究極の愛を示し、救いの計画を示されました。イエス様を見るならば、神様を見ることができます。イエス様を知るならば神様を知ることができます。私たちはさらにイエス様を知り、神様を知っていくべきです。イエス様を信ずるならば、神様の祝福の道を永遠に歩いていくことができます。イエス様を唯一の救いの道と信じた人は、なおこのお方に継続的に信頼して歩んでいくべきです。イエス様こそが人の歩むべき「道」であられるからです。