この世界に存在する悪が、目に見えるかたちで自分に向かって来ていると想像してみましょう。そのような状況の中で“神様に委ねる、任せる”ことについて学んできていますが、それは、何もしないでいることなのでしょうか。危害が加えられようとしている状況の中で、まったく正当防衛的な動きには出ないということなのでしょうか。単に、“されるがままにする”ことが、敵を愛し、不当な取り扱いをする者の幸福を願うことになるのでしょうか。今回の学びがすべての状況に答えを提供できるわけではないと思いますが、再び、正しい人への命令と、それに従う人への祝福、そして邪悪な人のさばきを学ぶ中で、賢者としてふさわしい姿勢・態度を考えたいと思います。(詩篇37篇27~40節)
I. 正しい人への命令
①善を行え(27節):この命令には悪を離れることがセットになっています。ロトがソドムを逃れた時のように、振り向くことなく罪とは逆の方向に進むのです。また、目の前の悪い状況や自身に対する悪を、罪を犯す言い訳にはしないということです。そして積極的に神様の御心を行い、成し遂げるのです。(3節)
②主を待ち望め(34節):悪に対して善に報いることができるのは、神様がおられるからです。しもべとして従順に、相続人として希望をもって、そして信者として主を待つことが求められているのです。信仰はそれを可能にします。クリスチャンは、決して広くない、平坦ではない「道」にとどまり続けなければならないのです。
③成長を求めよ(37節):正しい人の標準は高いところにあります。ですから、霊的な人、敬虔な人をお手本にするのです。しかし完全なお方はイエス様だけです。クリスチャンはイエス様に似た者とならなければなりません。完全な模範であられる、守り、助け、解放、そして勝利の主を見上げましょう。好まない経験をする時、それを成長の機会ととらえましょう。
II. 正しい人の祝福
正しい人の心にはみことばが刻まれています。(31節、申命記6:6; 詩篇40:8; イザヤ51:7)また、正しい人の心と発言は調和しています。(30節)建設的なことばを出し、健全な、そして霊的な会話をします。(詩篇49:3; 箴言10:31-32)正しい人は腹を立てたり、ねたんだりして、邪悪な者たちにスキを与えません。(1,8節)
神様は正しい人に良くしてくださいます。神様は正しい人を永遠に見捨てません。(28節)愛の対象に忠実であられます。27~29節に繰り返される「いつまでも」、「永遠に」の表現は何という慰めでしょうか。神様は義を愛されるゆえ、「聖徒」(或いは敬虔な人)を決して捨てることをなさいません。(箴言2:8)神様は守りとさばきを正しい人に約束されます。(33節)(ヨブがそうであったように)一時、悪者の手の中にあるかもしれませんが、そこに放置されることはなさいません。また正しい人は「地」を相続します。(29節)正しい人はその地を期待し、実際に相続し続け、それを子孫と分かち合います。正しい人はその地に留まります。(28-29節)それは、その土地での市民権、そして永遠の相続権と居住権を持っているということです。(9,18,29節)このことは、クリスチャンが、キリスト様にあってアブラハム契約の祝福に与っていることと重なります。(ガラテヤ3:26-29)
さらに神様は正しい人を高く上げてくださいます。(34節)これはあらゆる意味での繁栄を意味するのでしょう。そして正しい人には祝福の将来があります。(37節後半)
39~40節には正しい人の救いが述べられています。その救いは神様から来ます。(詩篇3:4; 62:1-2)神様は正しい人を問題から解放し守ってくださいます。とりでであられ(詩篇27:1)、解放者であられる神様に身を避けるならこの祝福を経験します。(詩篇2:12)
III. 邪悪な人のさばき
邪悪な人は正しい人を滅ぼそうと躍起になっています。(32,35節)しかし神様はさばいてくださいます。邪悪な人もその子孫もいずれ終わりを迎えることになります。(28節後半、9,22節)(34節後半、箴言24:20; 23:18)(38節)神様が彼らを断ち切られる時、その存在は確認できなくなります。(36節)
まとめ: 主にある賢者は、邪悪な世界にあって、正しい人としての歩みと祝福を経験する
人の歩みは、マイナスからのスタートです。罪があるからです。そのままではマイナス方向に一直線に進んでいきます。人の世界では“成功”を手に入れられるかもしれませんが、進んでいる方向は同じです。
真実に出会うこと、まことの神様を知ることは、人としてのスタート地点に立つということです。それは、プラス方向に、そして神様が用意しておられる無限の祝福の方向に歩いていくことができるようになったということです。このような“切り替え”がなされていることは何と幸いなことでしょう。
世の中の人々は、なお神の視点においては邪悪なまま、邪悪な世界でマイナス方向にまっしぐらです。そのような世界で、クリスチャンもその影響を少なからず受けています。クリスチャンがこの世界の逆風で生き抜くには、神様を信じ、正しい選択(行動)をすることです。まことの神様との個人的な関係に入ったクリスチャンは、どのような状況にあっても、少なくとも、否定的ではなく、肯定的・積極的な対応をすることがでます。それはクリスチャンが、世の光として、またキリスト様をあらわす者として生きるということです。