2月14日 イエス様の確かな死

※メッセージをお聴きになりたい方はこちら↓(音声のみです。)

https://youtu.be/QBY_bXk0vWI

キリスト教会では、血や死について語ったり、歌ったりします。(何とも奇妙な集団だと思われているかもしれません)それは、イエス・キリスト様が十字架で血を流され、死なれたことは、クリスチャンにとって重要で意義深いことであるからです。神の前に罪のある(絶望状態にある)自分が、「イエス様をそうさせた」と理解しているからです。そしてそのことによって永遠に続く幸いを得たと確信しているからです。
今日は特に「イエス様は確かに死なれた」ことに注目したいと思います。ある人々は「イエス様は死んだのではなく、仮死状態だった」と言います。それがもし本当であるならば、クリスチャンは「私のためにイエス様は死んだ」とは言えません。もしそれが本当であるならば、クリスチャンのイエス様に対する信仰は意味を持たないことになってしまいます。今回の箇所からイエス様の死を確認しましょう。(ヨハネの福音書19章31~37節)

イエス様が十字架刑になった週は過ぎ越しの祭りの週であり、ユダヤ人にとって、この週の安息日は重要な日という位置付けでした。そのため安息日の前に受刑者の「処理」をする必要があり、彼らの脚を折って(窒息させ)死を早めるようにとピラトに願い出たのです。ローマ帝国で処刑された者の体は、通常は、人々への警告としてしばらく人前にさらされます。しかしユダヤ人の律法では、日をまたいで体をさらすことは禁止されています。(申命記21:22-23)そのようなかたちで処刑された者は、神ののろいの下にあり、そのまま放置することは土地を汚すとされていたからです。イエス様の両側ではりつけになった受刑者たちは、脚を折られましたが、イエス様の脚は折られませんでした。死刑執行人たちは、イエス様がすでに死んでいることを確認したからです。しかし兵士の一人がイエス様の脇腹を槍で突き刺しました。イエス様の体が何らかの反応を示すか確認するためであったのかもしれません。(ヨハネは)イエス様の体から血と水が流れ出たことを記しています。(心臓、或いは胸腔を下から突かれたのかもしれませんが)イエス様は間違いなく死んでおられました。

ある人々は「イエスは神なので、汚れた(邪悪な)肉体を持ってはいないのだ。人間のように見えただけなのだ」と言って、イエス様が人であられること、身体をもっておられることを否定します。これを仮現論(仮現説)と言います。これにより、イエス様は「死んだように見えただけだ」と結論付けるのです。しかしヨハネの記録に注目しましょう。

I. ヨハネはイエス様の死を証言する
イエス様の十字架刑の際に現場にいた弟子のヨハネがイエス様の死を目撃しています。

II. ヨハネの証言は真実である
ヨハネのイエス様の十字架刑についての記事を含め、この福音書に書かれていることは真実です。(ヨハネ21:24)記者本人がそう言っているということ以上に、彼が執筆した箇所を含め、聖書は嘘偽りのまったくない真実の神様の監督のもとに(神の霊感によって)記されているからです。

III. ヨハネの証言は信じるべきものである
イエス様が本当に死んだかどうかは重要なことです。そしてそれが真実なのであれば信じることが重要です。なぜなら、イエス様の死によってもたらされる幸福(祝福)は、信じることによって適用されるからです。ヨハネの証言は、救いに至る信仰を促すのです。(ヨハネ20:31)イエス様の死を信じることは、その死の意味を信じることでもあります。罪のある人間(自分)のために、イエス様は死ななければならなかったこと、そしてイエス様が身代わりに死なれたことによって罪がゆるされ、永遠のいのちの約束が与えられることを受け入れることです。

イエス様の脚が折られなかったことは、(旧約)聖書の預言の成就でした。過ぎ越しの祭りで殺される子羊の骨は折られません。(出エジプト12:46; 民数記9:12)罪のある人間の罪を取り除く子羊として殺されたイエス様も脚を折られることがなかったのです。(Iコリント5:7)また完全な意味で義人であられる御子イエス様に対する父なる神様の保護を見ることができます。(詩篇34:20)ヨハネはゼカリヤ12:10のみことばも引用しました。やがてイエス様が来られる時、イスラエルの人たちは自分たちの王を拒絶し殺したことについて嘆くのです。(黙示録1:7)

まとめ: イエス様の確かな死は、イエス様の確かな復活に先立つ
イエス様が死なれたことは、イエス様が確かに肉体をもっておられた(受肉された)ことを説明します。またイエス様が確かに死なれたことは、イエス様が(神であるとともに)人であられるということを説明します。そしてイエス様の死の現実は(人が経験するものとは比較にはなりませんが)イエス様がその苦しみを経験されたことを説明します。
イエス様は私たちの罪のために、傷つけられ、「破壊」されました。しかもそれを自発的にお受けになりました。それによって私たちは、本当の平安、幸いを得たのです。イエス様の十字架の苦しみゆえに、本当の癒しを経験するに至ったのです。(イザヤ53:5)
確かな死を経験されたイエス様は、確かによみがえられました。超自然の御力があらわされたのです。イエス様が(人であるとともに)神であることがあらわされたのです。イエス様は罪のないお方であることがあらわされたのです。そして、罪のある人間を救うことができる唯一のお方であることが示されたのです。

関連記事

  1. 1月21日 神が求めておられること

  2. 3月17日 救われる VS. さばかれる

  3. 1月6日 みことばの祝福のサイクル

  4. 牧師へのメッセージ(I ペテロ 5:1~4)

  5. 3月27日 主の復活ー福音の中心

  6. 7月30日 兄弟とは?

  1. 2024.11.17

    恵みの回顧

  2. 2024.11.17

    導く神の御手(I ペテロ 5:10~14)

  3. 2024.11.10

    霊的警戒アラート(I ペテロ 5:8~9)

  4. 2024.11.03

    牧師の独り言 Vol.28

  5. 2024.11.03

    謙虚さの恵み(I ペテロ 5:5~7)

For those who speak English: Although we do not have an English service, we will do our best to assist you when you come to our service. Please contact us.