私は聖書の神を信じる⑧:聖なる神②

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https://youtu.be/66p-7KF6fu8

“聖”という語は、教会やクリスチャン生活に関係することばに使われます。聖書、聖句、聖歌、聖餐式、聖日、聖会など。これらはどれも、神様との関連があるものです。その意味においては特別であり、他のものとは区別される(取り分けられる)ものです。
前回、神様は聖なるお方で、聖を宣言され、聖と認められることについて学びました。今回は、神が聖であられる現実は、私たちにどのような影響を及ぼすものであるかについて学びたいと思います。

I. 神の聖は私たちの罪深さを暴露する
私たちが神様の聖さを認識するならば、神様の前にひれ伏すのみです。それは罪深さゆえの恐れと謙遜の反応です。預言者イザヤは聖い神様のご臨在を経験し、恐れおののきました。(イザヤ6:5)自らが取るに足らない者であることを認識したからです。
神様はモーセに対して、ご自分の顔を見ることは死を意味することを教えられました。(出エジプト33:20) 人の側も(ある意味本能的に)神様を見ることは恐ろしいことであると理解していました。(士師記6:22; 13:22) シモン・ペテロも神様のご臨在を目の当たりにして同様の反応をしました。一晩中 漁をして一匹も魚が捕れなかった場所でイエス様は大漁を可能にされました。魚の存在をお見通しであられる偉大なお方は自らの罪深さもすべて知っておられることの現実を突き付けられ、ペテロはひれ伏し、自分から離れてくださるようにと願ったのです。(ルカ5:8)

私たちが神様の聖を認識する時、自身の罪について敏感にさせられるのです。罪が指摘される時、(周囲の人との比較ではなく)神様の基準でもって自分をさばき、悔い改めるべきなのです。

私たちがイエス様を信じた時、自身の罪深さについて一定の理解をしたはずです。その上で、自分は神様の前に罪人であると認め、そのままでは死と永遠の刑罰に値すると認めました。そして罪を悔い改め、イエス様の身代わりの死は自分のため、と認め受け入れたのです。このことにより、聖徒という立場が与えられたのです。(ヘブル10:10)

II. 神の聖は私たちの聖を要求する
それは神様にならうこと(Iペテロ1:15-16):イエス様を信じて救われる前は、社会の常識や人との比較、そして自分なりの基準によって生活してきたかもしれませんが、イエス様を信じてからは、新しい基準が神様から与えられました。神様がお求めになっておられる聖さは、クリスチャンの新しい性質と振る舞いを特徴付けるものです。聖なる神様との関係が与えられていることが、聖い生き方をすることの動機です。そうであるならば、神様と神様のみことばに対して畏敬の念を持たなければなりません。聖徒という立場だけでなく、実際の歩みが聖いものと変えられていく時に最高のかたちで神様に栄光を帰すことができるのです。

それは神様に相応しい者となること:救われ神様のものとなり聖徒の立場を与えられたクリスチャンは、聖い歩みをする使命が与えられています。(Iコリント7:1) 宗教的であるなしに関わらず、私たちは体と心を汚すすべてのものから分離しなければなりません。歩みにおいて聖を実現すること、これが私たちの救われた目的です。(Iテサロニケ4:7; テトス2:14)
またクリスチャンが聖い歩みをすることは、神様との健全な交わりのために不可欠であること、またクリスチャンでない人々への「イエス様の紹介」が効果的になされるという意味で重要です。(ヘブル12:14)
さらにクリスチャンは、やがてイエス様にお会いする希望を持っている者として信仰生活において聖を追求していくのです。(Iヨハネ3:3)イエス様の再臨の現実の中で生きるクリスチャンは、他の人とは(良い意味で)違った生き方ができるのです。クリスチャンはやがてイエス様に似た者とされる(栄化される)のですが、(それであるからこそ)今、イエス様に似た者となることの願いを持って生きるべきなのです。

まとめ: 聖なるお方は聖徒の聖い歩みをお求めになる
詩篇の筆者が祈っているように、私たちも聖さを求める者でありたいと思います。(詩篇26:2; 51:10) 聖徒の立場を与えられている者として、神様のものであることの自覚をし、神様のために与えられているものを用いることに励みたいと思います。また歩みにおいて聖徒に相応しくありたいと思います。
聖なる神様は私たちに聖をお求めになります。私たちの思い、考え方、ことば、行動、ふるまい。これらは神様の前に聖いものでしょうか。私たちの選択や決断は聖いもの、聖い動機によるものでしょうか。
私たちの聖は、みことばによって現実のものとなります。みことばは、神様の前に何が良いことか、何が聖いかを教えるのです。私たちは、“どこまでならしても大丈夫か”ではなく、“これは聖いだろうか”という問いかけをしながら歩むべきです。私たちの聖い振る舞いによって神様はほめたたえられます。クリスチャンは聖徒と呼ばれますが、誰一人完璧な人はいません。しかし、聖徒と呼ばれるに相応しく歩むこと、その歩みを追求していくことを神様は喜んでくださいます。

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