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イエス様の復活が、キリスト教の根本教理であるという点から、今回も使徒たちがこのことを強調しているということを確認したいと思います。
(前回の)聖霊降臨(ペンテコステ)について記されている次の章では、生まれつき足が不自由であった人が癒される場面が登場します。
「この人」(11節)は、「美しの門」と呼ばれる神殿で物乞いをしている人でした。この人は神殿に出入りする人々から何かを恵んでもらう以上のことは期待していなかったでしょう。施す金銭のないペテロは、イエス様の御名によって立ち上がって歩くようにと呼びかけます。(6節)差し出された彼の右手をペテロが引っ張ると、彼の足が強くされ歩いたり踊ったりすることができるようになりました。(7-8節)イエス様のちからを信じて行動した彼は、歩く機能を得ただけでなく、神様を賛美する人に変えられたのです。今日の糧を確保するための援助の手を求めた彼は、両足を得たのです。同時に、束の間の満たしを求めた彼は、永遠の満たしを得たのです。この奇蹟に驚く人々を前にしてペテロは、生まれつき足が不自由であった人の癒しの真相を説明する中でイエス様を紹介していきます。(使徒3:11~16)
まずペテロはイエス様を「しもべイエス」として紹介しています。(13節)このお方は父なる神様が栄光を注がれた存在で、父なる神様の個人的な代表であられます。そのお方をユダヤ人たちは異邦人(ローマ人)に引き渡し拒絶しました。総督ピラトが再三にわたりイエス様の無罪を宣言し釈放しようとしたものの彼らはそれを拒否しました。
次にペテロはイエス様を「聖なる正しい方」として紹介しています。(14節)ユダヤ人たちは、罪のまったくないお方を拒絶し、逆に人殺しの釈放を求めたのです。
またペテロはイエス様を「いのちの君」として紹介しています。(15節)このお方はいのちの源(創始者)であられ、いのちへの案内人(導き手)であられます。ユダヤ人たちは“いのちの発端であられる神”を亡き者としたのです。
今回の箇所から3つのポイントを押さえておきましょう。
I. 罪深い者たちはイエス様を殺した
13~14節で「あなたがたは…」と言われています。ユダヤ人たちが、そして人類がイエス様に対して何をしたかということです。罪深い人間は神の御子であられるイエス様を引き渡し、拒み、殺したのです。
II. 神はイエス様をよみがえらせた
一方、神様は何をされたのでしょうか。(13, 15節)ご自分が栄光をお授けになった御子イエス様を死者の中からよみがえらせてくださいました。イエス様を十字架にかけた者たちは、イエス様を亡き者にした、と思ったでしょうが、神様はその企みを完全に破壊されました。
III. 信じる者には復活のちからが適用される
16節に「イエスの名が…」とあります。イエス様の御名にはちから(権威)があります。それは神としてのちからです。それを信じる人には、神様からの祝福が約束されています。聖書は、“信仰を持つなら日常のすべての問題が解決する”とは約束していません。しかし、神様の前における罪を悔い改めてイエス様を自分の唯一の救い主として信じる人は、神様の視点、永遠の視点で物事を見ることができるようになります。いかなる状況においても頼ることができる全知全能の神がおられること、このお方と共に歩むことができることの平安と確信を持つことができるのです。それは、死からよみがえられたイエス様の復活のちからによって人間らしく生かされることを意味します。
まとめ:復活されたイエス様は、信じる人を永遠に自由にする
ユダヤ人たちが十字架につけたお方は復活され癒し主、救い主となられました。イエス様は人が抱える精神的・肉体的・霊的束縛(負のもの)を解いてくださるお方です。その解放は(究極的には)復活をもって実現しスタートします。よみがえられたイエス様は、私たちをよみがえらせるちからを持っておられます。(ヨハネ11:25)
かつてイスラエルの民はヨルダン川を渡って約束の地カナンに入りました。カナン(天国)への旅路はクリスチャンの信仰の歩みに重ね合わせることができます。その旅路のプロセスがどのようであろうと、イエス様の死・復活ゆえに、信じる人は、やがてすべての負のものから解放され、新しくされ、天の御国に入れていただくことができる、その確かな約束をいただいているのです。