昨年の11月の最後の日曜日に、私の日曜学校では「予告通りに誕生されたキリスト様」というテーマでイザヤ9章から学んだ。
その週のデボーションノートには、6節にある「イエス様のお名前の一つ一つは、あなたの生活(人生)にどのような意味をもつ(影響をあたえる)ものであるか考えてみましょう。」というものを加えた。クラスの生徒の一人である娘が以下のことを書いてきた。
「永遠の父:イエス様はいつでも父親のようにやさしく、そして正しく導き、まもり、愛してくださるお方だ。いつまでも私を見放さず、見捨てないイエス様は、私がどんな状況にいても私を助けてくださる。私が弱くてもイエス様は父親のように私をまもってくださる。」(本人の承諾を得て引用)
娘が書いた「父親のように」という言葉にハッとさせられた。「父親のように」と彼女が言ったり思ったりするときは、私の姿を描いているということ。これには父親としての重圧を感じる。自分は「永遠の父」であられるお方を映し出しているだろうか。もちろん私はイエス様と同じにはなれない。しかし、娘がイエス様を「父親」とイメージする時に、自分の存在はその助けをしているのだろうか。考えれば恐ろしい話だ。私の姿(ふるまい・生き様)如何によっては、イエス様がどのようなお方であられるか、が間違って伝わってしまったり、不完全に伝わってしまうことになるからだ。「イエス様に似た者と変えられていくこと」はクリスチャン生涯において終わることのない目標であり目指すところであるが、身近なところで子供達の前に、「キリスト様を映し出す」生き方をすることのチャレンジをいただいている。自分の姿が子どもを失望に導くようなことがあってはならない。むしろキリスト様の素晴らしさを反映させる存在でなくてはならない。ただ主の恵みによって。