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祈りは“信仰者の呼吸”と言われるほどクリスチャンにとって重要なものです。この祈りに含まれるものとして、神様への賛美と感謝について学んできましたが、今回は(罪の)告白ついて学び、これには何が含まれるべきであるかを考えます。
旧約聖書に登場するエズラの祈りには、彼の信仰者としての霊的温度が顕著にあらわされています。彼は神様のみことばを勤勉に学び、実践し、人に教えることができる有能なリーダーとして活躍しました。彼の告白の祈りから多くのことを学ぶことができます。
罪の認知と悲しみ(1-5節):捕囚となったイスラエルの人々を引率してエルサレムに戻ったエズラに、しばらくして悲しい知らせが届きます。彼らが異教の人々との姻戚関係に入ったことです。エズラは痛く悲しみました。先祖がバビロン捕囚となった大きな理由の一つである罪に再び戻っていってしまったからです。異教徒との結婚は偶像礼拝への道と直結しています。捕囚において示された神様の怒りも、帰還において示された神様の恵みも、彼らを不従順から立ち返らせることにはならなかったのです。エズラは、再びさばきを招くことになるかつての古い生き方に戻っていくことの罪に対する苦しみと嘆きをあらわしました。
罪の恥辱と深さを認識(6節):エズラは霊的に砕かれ、民の罪ゆえに恥を覚え、謙らされ、唯一赦しと回復を与えるお方に助けを求めました。これは彼による祭司的とりなしと告白の祈りです。彼は自身を民と同列に置き祈りました。彼は神様への不誠実(不忠実)、歪んだ振る舞い、有罪の現実と向き合ったのです。
罪の結果を認識(6節後半-7節、13-14節):エズラは罪が神様を悲しませ怒らせるものであることを認識していました。先祖も自分たちも罪の結果の痛みを経験しています。再び陥った罪が神様の究極的さばきを招き、神様の無条件の契約が無効になるのではないかと恐れたのです。
罪の本質を認識(10節):神様は預言者たちによって警告と命令を与えておられました。しかしイスラエルの人々は神様の命令を捨てたのです。
神の憐れみを認識(8-9節、13節):神様は罪深い者をなお存続させてくださるお方です。ご自分のご性質と契約とに忠実(真実)であられるお方です。神様はご自分の民をケアし護ってくださるお方です。犯した罪に値するよりも軽い罰を与える憐れみ深いお方です。
神の正しさを認識(15節):完全な神様を見続ける人は、自身の罪深さを認識します。一方、神様を自分と同レベルで見る人は自身を高ぶらせます。エズラは、すべての者が有罪と見積もられ神様の前に立つことはゆるされないと認識しました。ここで彼は神様に赦しを乞うことさえしていません。言葉ではなく実践によって後悔と悔い改めを示すべきと認識していたからかもしれません。
まとめ:憐れみ豊かな神は真心の罪の告白をお受け取りになる
罪は徹底的に神様の前に悔い改め、告白する手順を踏まないとそこから抜け出すことは困難です。私たちは、自身の罪と向き合うことを拒み、言いわけをし、責任転嫁をし、自身は例外の対象であると考える傾向があるからです。神様の前における罪の認識と悔い改めの先に行動の変化が生まれます。
罪を認識する時、私たちは神様に前において居場所がないのを覚えます。しかし、自身の歩みを省み、悔い、告白する者を神様は再度立ち上がらせてくださいます。自身の罪を認識する時失望します。しかし赦しを好まれる神様の前には憐れみと恵みが常に豊かにあります。それが罪を告白する者への希望です。