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ペテロは、イエス様にお仕えする正しい態度(姿勢)について教えています。すでに、みことばとキリスト様に対する正しい態度について学びましたが、今回は、クリスチャンに与えられている召しに対する正しい態度について学びたいと思います。
① 与えられた召しの立場(9節前半):ペテロはクリスチャンに与えられている特権について述べています。イスラエルの民は、従順という条件付きでこの約束をいただいていましたが、不信仰ゆえこの特権を失うこととなりました。(出エジプト19:5-6)新約の時代において、このイスラエルが失った恵みの立場を教会がもつこととなったのです。
*選ばれた種族:これは、世界のあらゆる種類の中から一人一人選ばれて構成されている種族です。クリスチャンは神様によって選ばれました。(エペソ1:4)人間的・地上的・親族的枠組みから出て、“天的種族”の構成員となったのです。クリスチャンは神様の御心によって霊的に生まれ、霊的類似性を備えています。(ヨハネ1:13)肉体的・物質的世界において霊的働きをする者とされているのです。
*王である祭司:「王である」を形容詞ととらえれば、王であられるお方のもとで働く祭司の意味合いとなります。イスラエルは神様への背信行為ゆえ、一時的にこの特権を剥奪されました。現在、教会は「王である祭司」として、究極の王であられる祭司(イエス様)と結び合わされているのです。神様と特別に近しい存在とされ、人々のためにとりなしをするのです。神様の卓越性を示す祭司として、(霊的な意味で)天の聖所に入り礼拝をささげ、証しのためにこの世界に遣わされ、神様と人とを仲介する役割を果たすのです。さらに、王に仕えるのみでなく、王として統治すると聖書は述べています。これは、究極的には将来におけるイエス様の王国において起こることです。
*聖なる国民:イスラエルは諸外国の罪を歓迎したことで堕落し、聖別に失敗しました。将来においてイスラエルがメシアを受け入れるまでの間、教会がこの神様に取り分けられた立場に与っているのです。
*神のものとされた民:クリスチャンは、神様ご自身の所有である人々です。神様のご計画と方法により神様に属し、神様にとって特別価値のある者となったのです。
② 与えられた召しの目的(9節後半):偉大な召しの立場をいただいたクリスチャンの務めは、神様の栄誉を告げ知らせることです。神様の御ちからを宣言するのです。かつて、罪の闇の中を歩んでいたところから、神様の輝かしい光(ご支配)の中に召されたことを証しするのです。
③ 与えられた召しの尊さ(10節):ペテロはホセア書のことばに言及しています。(ホセア1:6,9)神様とイスラエルの民との決別が記されているように思われますが、将来におけるイスラエルの回復も約束されています。(同2:23)ペテロの手紙の読者の中には(不信仰から立ち返った)イスラエルの民(ユダヤ人)も存在した可能性がありますので、ホセア2:23に書かれていることが部分的に成就していると言えます。イスラエルは神様の選民でありながら、神様に反抗し従いませんでした。新約の時代(教会時代)は、神様がイスラエルを取り扱われた前の期間と将来の時との間に割って入っています。教会が携挙されるとき、神様のイスラエルに対する取り扱いは再度実施され、イエス様を信じる者たちが神の民となるのです。ホセアが預言していることの最終的成就は、イエス様の再臨の時です。その時、信じ悔い改めるイスラエルの民は(もう一度)神の民となるのです。(ゼカリヤ12:10)
クリスチャンは、神の民とされた者です。神なき者が敬虔な者へと変えられたのです。あわれみを受けるはずのない者があわれみを受けたのです。一般的な意味において、神様は被造物に対するあわれみを示しておられますが、救われた者(教会)には特別な永遠のあわれみを示しておられます。(ローマ9:15)
まとめ:偉大な召しを感謝し、その召しに相応しくあれ
クリスチャンの価値とは、クリスチャン自身が成し遂げた何かにあるのではなく、神様がしてくださったことにのみあります。ご自分の子どもとしてくださった神様に対する健全な感謝の意識は、クリスチャンが人々に自身の信仰を分かち合うことを促すでしょう。イエス様にある召された立場の偉大さをより認識するために、“クリスチャンでなかったらどうなっていたか”を時々考えてみるべきです。イエス様の尊い血によって買い取られ召された事実のみが、神様の前に価値があるのです。
イエス様にお仕えする正しい態度(姿勢)について学んできました。クリスチャンが霊的に正しい態度を神様に対して持つなら、効果的な霊的働きが可能となります。みことばを慕い、支えてくださるキリスト様のちからに信頼し、召しの特権への健全な意識を持つことは、イエス様にお仕えしようとする信者の基本姿勢です。