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ある若者がイエス様に「どんな良いことをすれば」救われるのかと質問しました。(マタイ19:16)この若者は救い(永遠のいのち)の必要性を認めてはいましたが、誤った世界観で質問したのでした。彼は、自分の功績によって救いは自分のものになると考えていたのです。救いは、すべて神様のみわざに基づいています。そしてそのみわざを受け入れた人(信じた人)にはよい結果があらわれるのです。今回は信仰の結果としてあらわれる善行について学びます。
*行いによって救われるのではないが…(エペソ2:8-9; ローマ3:20)
バプテスマを受けること、教会員になること、献金をすること、慈善事業、道徳的・立派な生活をすることは、どれも救われる手段にはなりません。また信仰にこれらの行いを追加することによっても救われません。(もしそうであれば、救いは神様の恵みによるのではなくなります。)
善行:救いの目的(エペソ2:10)
イエス様を信じた人は神様の所有となりました。イエス様のみわざ(死と復活)ゆえに、クリスチャンは新しいものとして造り変えられたのです。それは「良い行い」をするためです。クリスチャンは救われたからそうすることが可能なのです。
*「良い行い」とは?
それは神様が準備してくださっているものです。神様は一人一人に計画を持っておられます。その計画は具体的なものであり、それを心から求めるなら、“どのようにして良い行いをするか”を神様は教えてくださいます。
またそれは神様が「あらかじめ」準備されたものです。人が救われる前からある神様の計画です。救われたクリスチャンがすべきことは、神様のご計画(御心)を知り、それに従うことです。
そしてそれは知ることができるものです。罪を告白し、継続的にそして無条件に従い、みことばの学びと実践を徹底し、祈りを充実させ、機会を用いて奉仕をし、他のクリスチャンと交流していく中で明確となっていきます。
神様の民とされたクリスチャンは、世の中の人が世の中のことに情熱を燃やすのを見る時、イエス様のために良い行いをしたいという刺激を受けるべきなのです。(テトス2:14)
善行:神様に栄光を帰す(マタイ5:16)
クリスチャンは、その特質を示しつつ神様にお仕えするのです。行いによって神様の素晴らしさを示すことは、ことばによってよりも説得力があります。「良い行い」をするクリスチャンの生涯が、神様に最大限の栄光をもたらすものとなります。そして必然的に、他の人々に最大の祝福をもたらし、自分自身に最高の報いをもたらすものとなるのです。
善行:信仰を証明する(ヤコブ2:17-26)
ヤコブは、“人は信仰と行いで救われる”と言っているのではなく、本物の信仰とは、“結果的に良い行いを生みだすような信仰”であると言っているのです。自分が信仰をもっていることを他人が知るには、実生活でそれを示すしか方法はないのです。真の信仰は行いを生み出し、行いは信仰の証拠となるのです。
パウロはことばと行動が伴わない人々のことを非難し、信じた人は良わざに励むようにと教えています。(テトス1:16; 3:8)イエス様を信じた(信じる)人は神様の愛に駆り立てられて良い行いをする人々なのです。(ガラテヤ5:6)
まとめ:イエス様を信じていることは良い行いによってあらわれる
イエス様を個人的に信じ受け入れた人の心(内面)は変えられ、この変化が行い(外面)の変化をもたらします。イエス様による“新しい創造”は、信じる人が創造の初めに神様が造られたアダムと同じ状態になるという意味ではありませんが、神様の前にも人の前にも良いものを生み出し増やすことが出来る人とされるということです。これこそ救われた者たちの信仰生涯の目的です。(救いの恵みと目的を理解して神様に委ねる限り)神様がクリスチャンを良い行いをする存在として使われる可能性は無限大です。イエス様を信じた人だけが、本当の意味で(神様が評価されるところの)善を行うことができるのです。