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“よい人間になりたい”と思っている人はそれなりにいると思います。ただそれをどのようにして(また何のために)実現させるかが問題です。聖書の神様を信じている人は、まことの神様の存在と、全知全能の神様の支配を大前提にして生きています。それゆえ、クリスチャンは、聖書を読み学び黙想することにより、神様が望まれる姿を追求していくのです。言い換えれば、神様の教えに従うなら、神様に喜ばれる“よい人間”になっていくのです。クリスチャンはまさにこの聖化の過程にいるのです。この過程を考える時に、神様の側と人の側の動きがありますが、(前回学んだ“父なる神様による”に続いて)今回は、子なるイエス様、そして聖霊なる神様による聖化について学びたいと思います。
子なるイエス様による聖化: イエス・キリスト様は私たちのためにご自分をささげてくださいました。(ヘブル10:10)イエス様の犠牲ゆえに、私たちは、神様によって、神様のために、神様に対して聖別されたのです。イエス様の御子としての一度で完璧な従順の実践は、私たちの聖化と関連しているということです。
旧約の時代においては(人の罪のためにいけにえとなる)動物が宿営の外で焼かれました。それは宿営の外が汚れた場所であることを意味しています。イエス様はエルサレムの城壁の外で血を流し死ぬことにより私たちを聖なるものとされたのです。(ヘブル13:12)
イエス様がささげられたのは、クリスチャンの集合である教会を聖めるためでもあります。(エペソ5:25-27)イエス様の死は、人を(そして教会を)罪の古い習慣から洗いきよめ、聖なる奉仕のために聖別したのです。教会は立場において聖くあり、状態においてはみことばによって日々聖別されつつあるのです。
聖霊なる神様による聖化: 聖霊なる神様は、救われたクリスチャンに肉(罪)の性質に対する勝利を与えてくださいます。(ローマ8:2)聖霊は、(自らの努力によるのではなく信仰によって)聖く生きるためのちからをクリスチャンに与えます。また聖霊なる神様は、人の中に存在する肉(罪)の性質のあらわれを阻止します。(ガラテヤ5:17)肉の性質があることの現実は、クリスチャンに、自身の弱さを思い出させます。そして、唯一の救い主であられるイエス様に頼り続けるよう促すのです。この世に生きる限り、聖霊と肉(人の罪の性質)は常に戦闘状態にあります。この戦いにおいてクリスチャンがすべきことは、聖霊に従うことです。クリスチャンがイエス様を信じて委ねる時、神様がお求めになっておられる実が結ばれるのです。
まとめ:聖徒は聖さを追求する戦いに召されている
唯一完全に聖いお方であられるイエス様の尊い犠牲のみわざを黙想しましょう。私たちが聖徒の立場を得ることできるために支払われた価の大きさを考えましょう。聖い者として立たせようとされた神様の御思いを考えましょう。
同時に、より聖い者へと変えられることを望まれている聖霊なる神様の肯定的意図を黙想しましょう。聖霊は、聖さの先にある祝福に与らせようとしておられるのです。聖さゆえに結ぶことができる実(神様をお喜ばせする生き方の実践とその効果)を得る喜びは、この世が決して提供することができないものです。