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救われた人は確実に終わりまで保たれることが本当なら、“地上で生きている間は、せいぜい楽しく暮らしたらいいのではないか”とならないでしょうか。もしそのように考えるとしたら、新しく生まれることの意味を正しく理解していないことになります。新生した人は、新しい性質を受け、新しいいのちで生き、神様が喜ばれる歩みを追求します。救われた人の救いが最後まで保たれることは事実ですが、悪い事(神様が喜ばれない事)をすればそれに対する罰(結果)があることも事実です。真のクリスチャンも罪を犯しますが、真のクリスチャンは習慣的に罪を犯し続けることはしません。また救われたクリスチャンは、神様のため、人のため、そして教会のために献身的奉仕をせずにはいられなくなるはずなのです。今回は救われた人は確実に終わりまで保たれる三つ目の理由について学びます。
神様にはそのちからがある: 神様は救いをいただいたクリスチャンがずっと保たれることを望まれるだけではなく、それを可能にしてくださいます。
ピリピ1:6-神様はあらゆる面において、イエス様を信じた人に対して良い働きを始められました。永遠の救いはその大きな部分です。人の永遠が変えられるのです。神様の前における罪がゆるされ、神様との和解が成立し、聖霊なる神様が内に住んでくださいます。その人は真の喜び・平安・満足を経験し、神様のために生産的に生きるのです。神様の良いお働きは、人が信じた時にその人の中で始まります。そして聖霊なる神様の働きの中でその働きは前進して完成へと導かれるのです。
IIテモテ1:12-信仰者であり伝道者であった使徒パウロが苦しみを超越できた理由がこの節には詰まっています。彼は神様が将来における栄光と祝福を“封印”しておられることを確信しています。彼は、神様ご自身を、救いとの関連において確かに親密に知っています。パウロは過去において信じ始め、今も信じているお方に、自分の生涯、そして永遠を委ねているのです。彼の確信と大胆さは、神様のちからと忠実さ、そしてこのお方との不滅の関係ゆえです。地上の歩みの中で、身の安全についての確信はなかったかもしれませんが、イエス様の保護下にあることを疑いませんでした。彼は、イエス様のための奉仕が正しく評価され、忠実さが報われる「かの日」を見つめつつ歩んだのです。
Iペテロ1:5-クリスチャンの救いを過去・現在・未来という点から説明することができます。クリスチャンは、すでに(過去において)罪の結果の罰から救われました。現在の歩みにおいては、罪のちからから救われています。(罪をまったく犯さないという意味ではありませんが)そしてこの節で述べられているように、未来においては、罪の存在から救われます。前の節において“永遠の資産”を受け継ぐことの約束について述べられていますが、それが約束されているのに人の救いが永遠でない、というようなことがあるはずはありません。本当の信仰があるならば、その信仰には継続性(永久性)が伴っています。
ユダ24-世の中の人々がますます神様に背を向けて生きていく中にあって、なお神様は、信じた者たちを(同じようにしようとする誘惑から)全能の御ちからでもって守り続けてくださいます。イエス様の正しさのゆえに、義と認められた者として神様の御前に立つことができるまで、保護のみわざは途絶えることがないのです。
まとめ:救われた人は神様の御ちからによって確実に終わりまで保たれる
人は皆、年を重ね衰え、第一線では働けなくなっていきます。しかし永遠の神様は、無限のちからをもっておられ、そのちからはクリスチャンの救いの継続にも適用されているのです。人は誰も、自分のちからで救われません。そしてクリスチャンは誰も、自分のちからで救いの立ち位置を保つことはできません。しかし神様によるクリスチャンの管理は完璧です。全能の神様が永遠に保ってくださるからです。