潤いがない、渇いている状態は色々な意味において私たちの生活に不都合をもたらします。身体的にも、喉、目、肌の渇き(乾き)は私たちに不快感を与え、時には深刻な結果をもたらします。
人生における「渇き」はどうでしょう。生きがいがない、生きる目的がわからない、何をしても満足できない、それはまさに渇いている状態です。何かが足りないのです。人生に潤いを与える何かが必要なのです。今回は人の渇きを癒し、いつまでも続く満足と潤いを与えてくださるお方について考えます。(ヨハネの福音書7章37~44節)
I. 渇いている者への勧め(37節)
イエス様は仮庵の祭りの最後の日に大声でお語りになりました。“渇いている者は私のところに来て飲むように”と。この祭りにおいて人々は過ぎ去った年に与えられた穀物・果物について、そしてそれを可能とするために与えられた雨について神様に感謝をささげます。そして水を汲み、ぶどう酒とともに神様におささげするのです。イエス様は視覚教材を用いて、活ける(生ける)水であられるご自分を受け入れるようにお招きになっているのです。誰でも、イエス様に心を向けてイエス様を信ずるなら、罪がゆるされ永遠にわたる幸いを手にすることができます。集団で一つの儀式としてこのことを守るのではなく、個人的に信仰によって神様に応答するようにと呼びかけられているのです。
II. 渇いている者の満たし(38~39節)
イエス様はご自分の勧めを受け入れる者への約束を明確にしておられます。人は表面的には満足しているように見えても「心の奥底」には渇きを抱えています。そしてその渇きを癒そうとこの世のあらゆるものに潤いを求めます。それらがもたらす潤い(満足)は一時的・部分的なものであるため、人は終わりのない追及を続けているのです。イエス様は人の内側の隠された部分にまで潤いを与えることがおできになり、それは川となって流れ出るほどのものであると仰いました。イエス様ご自身がこの祭りが示すところの成就であられるのです。イエス様は人の魂に本当の意味でのリフレッシュをお与えになることができ、その効果は他の人にももたらされることを約束しておられます。
「生ける水」をいただくことは、イエス様を救い主と信じる者が心の内に聖霊なる神様をお迎えすることでもあります。イエス様は十字架の死を通られ、栄光をお受けになり、信ずる者一人一人が聖霊を受けることができるようにしてくださいました。聖霊は私たちの霊的いのち、永遠のいのちの源です。
III. 渇いている者の応答(40~44節)
イエス様に対して人々は少なくとも三種類の反応を示しました。ある者は納得し、ある者は反対し、そしてある者は敵対心を抱きました。皆人生における渇きを持っている人たちです。そしてイエス様による渇きの癒しを必要としている人たちです。あなたはどう応答しますか。どう応答しましたか。人生における渇きを覚えておられますか。もしそうなら、イエス様によって潤いをいただきましょう。勧めに応じてイエス様のもとへ行きましょう。
まとめ:真の渇きの癒しと満たしを経験した者は 「生ける水」を紹介するパイプ役になることができる
人生における渇きはイエス様のもとに来ることによって解決されます。「生ける水」であられるイエス様を個人的に信じることによってそれは実現します。自分を造られたお方を知り、そのお方により救っていただき、神様のために生きるという目的を知った人はいつまでもイエス様にある潤いを保ち続けることができるのです。内に住まわれる聖霊なる神様がそれを可能としてくださいます。
イエス様を信じていながら、「生ける水」をいただいていながら、信仰生活がドライになってはいないでしょうか。何か物足りないと感じてはいないでしょうか。それらを何か別のもので埋め合わせしようとしてはいないでしょうか。救いは一度信じた者にとって永遠に有効です。しかし信仰生活における真の満足・潤いは、それを求めるクリスチャンの神様に対する正しい応答の姿勢によって有効であり続けます。イエス様のみわざに基づいて、真の渇きの癒しと満たしをいただいた原点に立ち返りましょう。そして常に霊的潤い(賛美・感謝・喜び・平安など)を実現してくださるイエス様のみことばを信じて心に蓄え、聖霊なる神様の導きに従う決意をもって臨みましょう。神様からの満足と潤いを経験している人は、周囲の人々にもその祝福を分かちあうことができます。人生の渇きに真の解決を与えてくださるお方を周囲の人々に紹介し、励まし、助けることができるのです。