エルサレムに到着し、信者たちの歓迎を受けたパウロたちは、翌日エルサレムの教会のリーダーであるヤコブや長老たちと面会しました。パウロの宣教報告を受けた彼らはパウロに一つの提案をしました。それはパウロについて誤った認識をしている人たちの誤解を解くためのものでした。
イエス・キリスト様を個人的に信じ受け入れクリスチャンとなった人は、神の救いの恵みに感謝するとともに、イエス様のために何かをさせていただきたいと考えるのが自然の流れです。クリスチャンが以前と比べて外見が著しく変化するということはないかもしれませんが、内面は大きく変えられているのです。そこには主にお仕えしたいという情熱が存在します。今回の箇所から奉仕者としてのクリスチャンの姿を考えたいと思います。(使徒の働き21:17~26)
I. 神様から与えられた務めを果たす →今日の箇所には「奉仕」ということばが登場しますが、神様は各々に(社会・家庭・教会において)仕事・役割・立場等を与えておられます。その中にはクリスチャンになって初めて与えられるものもあれば、クリスチャンになる前から与えられているものもあります。後者の場合はクリスチャンになったことを機に“主にあって”の務めとなるわけです。その務めを果たすために神様は(得手不得手がある中で)私たちにちからを与えてくださいます。クリスチャンは報酬や評価の有無に関らず、神様から与えられたお役目として、その務めに正しい態度で臨むのです。それが可能であれば与えられた役目が所謂“雑用”であっても単なる雑用ではなくなるでしょう。主におささげする尊いものとなり単なる日課の一部ではなくなるでしょう。“主のために”という目的意識・動機は私たちの務めに対する姿勢を変えることになるのです。
II. 神様のみわざを認識する →神様から与えられた奉仕を通して神様が働かれます。パウロは確かに働きました。しかしパウロを通して「神が…なさった」と書かれています。どのような務めにおいても、私たちは単独で物事を行うのではなく、神様が私たちを使い私たちを通して実行させてくださるのです。神様から与えられた務めが果たされるとしたら、それを可能としてくださる神様のみわざに参加させていただいているのが現実です。これを認識するならば、私たちは神様に頼ってお仕えし、結果を神様にお委ねすることができます。過度にプレッシャーを感じたり、結果に一喜一憂するところから守られます。同時に、このことを認識するならば、自分がしたことではなく、神様が行ってくださったことに目を向け、人々にもそのことを語ります。そこには神様の権威を認め、謙ってお仕えする奉仕者の姿があります。
III. 神様をあがめる →神様から与えられた務めを果たし、そこに神様のみわざを認識する人は、神様を賛美し、またそうすることを他の人たちに励ますことができます。パウロの報告を聞いた人々は「神をほめたたえ」ました。神様をほめたたえることは、クリスチャンの存在目的であり、クリスチャンとしてできる最高の事です。神様がどのようなお方であられるか(神のご性質)を覚え黙想する時に賛美することができます。またこのお方が私たちの(そして他のクリスチャンの)歩み/行動に介入し働いてくださることをほめたたえることができます。ですから一つ一つの場面において、神様のみわざを認識すること、神様の存在を念頭に置いて考えたり行動したりすることは重要なのです。
IV. 神様の子どもたちを顧みる →イエス様による救いの体験は神様との関係において起こることです。そして信仰の歩みも神様との間で行われるものですが、だからといって周囲にいるクリスチャンたちは関係がないということではありません。クリスチャンになるということは、イエス様をかしらとして他のクリスチャンとつながり教会を形成し始めるということです。共にイエス様を信ずる兄弟姉妹に対して、消極的には躓きや失望を与えないようにするべきですし、積極的には信仰を励まし、徳を建て、助けを提供し、祈るべきです。パウロの行動は神様との関係において問題があったわけではありませんが、“モーセの律法を軽視している”という誤解がユダヤ人の中に広まる状況で、その解決のために行動することが求められました。パウロはそれに応じました。それは神様のために、であり、神様の働き(宣教)の前進のためにです。他のクリスチャンのことを考えて行動する(時には義務以上のことをする)ことは、他者に仕えることであり、結果的には神様にお仕えすることへとつながっているのです。
まとめ:神の奉仕者は神様にお仕えする祝福を経験する →神様にお仕えして不幸になるクリスチャンはいません。神様に心を向けて(神様をお喜ばせするという)正しい目的で一つ一つのことをさせていただきましょう。自分が何をするか、何ができるかではなく、神様が何を行ってくださるかに集中し期待しましょう。良いことについては神様をほめたたえ、駄目なことについては、自分の足りなさを謙虚に受け入れましょう。神様の前における歩み/奉仕の中で、主にあるクリスチャンたちのことを念頭に置きましょう。