律法を守って、或いは自身の努力によって、神様のもとへ行こう(救われよう)としている人を、吊り橋を渡って向こう岸に渡ろうとしている人にたとえることができるかもしれません。その人は吊り橋が到底支えきれない荷物を抱えてその橋を渡ろうとしています。それではどのようにがんばっても向こう側に到達することができません。罪の重荷を抱えたままがんばって神様に受け入れてもらおうとしてもそれは不可能です。神様のもとへ行く橋を渡るためには、その重荷、そして自身の(立派だと思っている)功績を棄てなければならないのです。
クリスチャンは神様の恵みにより、重荷を破棄し、神様のもとへ行くことがゆるされました。それは律法を行うこと(自分の努力)によって救われよう、幸せになろうとしていた状態からの救いでもあります。今回は律法ののろいからの救いについて考えましょう。(ガラテヤ3:13~14)
I. 律法の のろいからのあがない:その現実 (13節)→このあがないは、キリスト様によるみわざであるということです。このみわざには、キリスト様がのろわれる者となられたということと、そのことにより、本来のろわれるべき者が解放されたことが含まれています。
この節にある「私たちのために」とは本当にありがたい言葉です。神様(イエス様)は実にすばらしいことを私たちのためにしてくださいました。それはすべて私たちの祝福のため、幸いのためです。
イエス・キリスト様は、私たちのために、人となられ、この世界に来られました。私たちのために、貧しくなられ、模範を示され、父なる神様の御心を行われました。十字架にかかられ、悩みと苦しみを受けられ、傷つけられ痛めつけられました。罪とせられ、さばかれ、それを耐えられ、受け入れられました。私たちのために、ご自分のいのちを与えられ(ささげられ/捨てられ)、死なれました。(私たちの罪を背負われました) そして父なる神様に見捨てられました。キリスト様は私たちのために復活され、ご自分をあらわされました。今、キリスト様は私たちのために住まいを備えていてくださり、父なる神様の前にとりなしをしてくださっています。やがてキリスト様は私たちのために、再びおいでになられます。
(参考箇所:ルカ1:69; ロマ4:25; 5:8; 8:34; Iコリント5:7;15:3; IIコリント5:21; 8:9; ガラテヤ1:4; エペソ5:2; Iテサロニケ5:10; テトス2:14; ヘブル6:20; 9:12, 24; 10:20; Iペテロ2:21; 4:1; Iヨハネ2:2; 3:16; 4:10)
「あがない」には、市場で買い上げる、買い戻すという意味があります。キリスト様の、人の罪のための身代わりの死は、正しく聖い神様の要求を満たし、罪人に対する神様の怒りを回避することを実現しました。キリスト様は、人を罪のどれいであったところから、そして永遠の死(さばき)を宣告されたところから、買い上げられたのです。行いによって救われようとしているところから(そして結果的にいつまでも救われない状態から)買い戻されたのです。その代価はキリスト様の尊い血です。キリスト様はご自分が十字架にかかることにより、このことを実現されました。キリスト様は十字架において、律法に違反したすべての人に対するのろいの宣告を、ご自分の上にすべてお受けになったのです。
(参考箇所:申命記21:22-23; ガラテヤ4:5; テトス2:14; Iペテロ1:18-19; 使徒20:28)
II. 律法の のろいからのあがない:その結果 (14節)→キリスト様によって、律法ののろいからあがなわれたことにより、(それを信ずる)わたしたちクリスチャンは、キリスト様にあって、アブラハムと祝福を共有する者とされました。同時にキリスト様にあって、約束の御霊を受ける祝福に与りました。これらの祝福は、私たちが信ずることによって与えられるものです。
(参考箇所:イザヤ44:3; エゼキエル36:27; 37:14; ヨエル2:28-29; ルカ11:13; 24:49)
まとめ:のろわれるべき者を祝される者と変えてくださったイエス様をほめたたえましょう →クリスチャンの上にはイエス様の素晴らしいみわざが行われました。(そして現在進行中です) 律法ののろい(律法を行うことによって救われようとすること)からあがなわれています。(買い取られています) 結果的に、アブラハムに約束された神様の救いのご計画が、御霊を受ける(内に宿す)ということを含めて成就したのです。それはキリスト様にある大きな祝福です。クリスチャンは変えられました。死からいのちへ、暗闇から光へ、絶望から希望へ、罪ある者から義と認められる者へと。ですから、神様があなたのためになされたことをいつも覚え黙想しようではありませんか。