皆 幸せな人生を送りたいと願っています。でも、どのようであれば幸せな人生、豊かな人生と言えるのでしょうか。ある人は、お金やモノが充分にあって、自分の望む立場や環境を手にすることができれば、幸せな人生であると考えるかもしれません。もし生きている間のことがすべてであるのなら、そうなのかもしれません。またある人は、「幸せ」の意味は人によって違うのであるから、“本人がそう思っているのであれば他人がとやかく言うことではない”と言う人もいるかもしれません。もしこの世界に、人間以上の存在がないのであれば、そうなのかもしれません。では、聖書は人生の幸せについてどう言っているでしょうか。(ヨハネの福音書10章10節)
このテーマを考える上で二つのポイント(聖書の視点)を念頭に置いておきたいと思います。一つは、“人は死んだら終わり”ではないということ、そしてもう一つは、この世界を造られた絶対的な神が存在するということです。
I. 豊かな人生はイエス様によって与えられる
「いのちを得…それを豊かに持つ」:ここでの「いのち」は通常のいのちとは違う意味で使われています。そしてこの「いのち」は(私たちの誕生の際のいのちがそうであるように)イエス様から与えられるものであることがわかります。イエス様が与えてくださる“豊かないのち”とは、生きることの充実、つまり豊かな人生です。
II. 豊かな人生はイエス様の犠牲によって与えられる
「羊」:羊は飼い主に依存する弱い動物の代表と言えるでしょう。羊は常に守られ、導かれ、養われる必要があります。実は人間も神様の前においては羊のようです。神様に造られた人間は、(たとえ認識がなくても)生きること、そしてそもそも存在することにおいて神様に全面的に依存しています。言い換えれば、人間が神様に頼って従って生きる限り、幸せでいられるということです。しかし、(最初に造られた)人間は愚かにも神様に逆らい、神様から独立するという過ちを犯しました。このことにより人間は“迷子の羊”となりました。生まれながらにして、神様に従おうとしない罪の性質を持ち、神様の前においてはまともな生き方ができない存在となったのです。究極のライフラインを自ら断ち切った人間は死と滅び(罰)を自ら招いたのです。
「わたしが来た」:イエス様は神様から離れ“迷子”となった人間を見つけ出し保護するために、この世界に来られました。私たち人間が助かるためにはイエス様の尊い犠牲がありました。それはご自分の命を捨てる、つまり代わりに罰を受けて死ぬという犠牲です。イエス様がこの世界に来られたのは、罪を持ち、神様と交流できなくなったしまった私たちのため、神様のために生きることができなくなってしまった私たちのため、そして神様に造られた者として相応しく生きることができなくなってしまった私たちのためです。
「いのち」:ですからこれは神様を認め、神様のために生きるいのちです。そしてこれは本当の、永遠に続く幸せを可能とするいのちです。
神様は、ご自分から“迷子”になった私たちを、なぜかかわいそうに思ってくださり、助かる方法を用意されました。神様のたったひとりの子であるイエス様が私たちの罪を背負い、十字架刑をお受けになりました。このことにより罪に対する神様の正しさが示されたのと同時に、罪をもっておちぶれてしまった人間に対する神様の愛が示されたのでした。
III. 豊かな人生はイエス様を信ずることによって与えられる
あなたが豊かな人生を始めるには、イエス様が用意してくださった「いのち」を受け取る必要があります。自分が神様の前においては罪のある人間であり、“迷子”であることを認めて神様に謝罪することです。そして罪のある自分、死と死後の刑罰を本来は受けなければならない自分に代って罰を受け死なれたイエス様を、自分の個人的な救い主として信ずることです。そうすれば、罪がゆるされ、(肉体の)死後、永遠に神様と共に生きることができる約束が与えられます。イエス様を信じ救われて豊かな人生をスタートさせると、“イエス様のために生きよう”という意識(態度)が与えられ、実践していく願望が与えられます。神様(イエス様)に生かされ救われた喜びを覚えつつ、神様を意識して生きる生き方へと変えられていきます。
まとめ:豊かな人生の条件は、本当の神様を知って(信じて)神様のために生きることです →あなたも神様(イエス様)と個人的な関係を結びませんか。それはあなたを縛るものではなく、(死の恐れを含めて)様々なものからあなたを解放し自由にするものです。神様が喜んでくださる生き方を選ぶと、結果的にあなたも喜ぶことができます。豊かな人生を経験することができます。その方法がイエス様にはあります。