現在エルサレムには神殿がありません。第二の神殿と呼ばれる神殿は今から約二千年前にローマ帝国によって完全に破壊されました。唯一残っているもの、それが「嘆きの壁」として知られている部分です。イエス様はこの神殿がなお存在している時に宮きよめを行われました。その後のユダヤ人たちとのやりとりの記事において、イエス様ご自身が神の御子であることのしるしについて見ることができます。そのことについて学んでみましょう。(ヨハネ2:18~22)
前回に続いて筆者の使徒ヨハネは、宮きよめの記事を通してイエス様が約束されたメシヤであり神の御子であるというテーマを強調しています。今回の箇所では、神様だけがもっておられる復活のちから、その権利について述べます。
I. それはみわざによってあらわされている (18節)
ここに登場するユダヤ人は神殿において重要な立場にある者たちかサンへドリン(ユダヤ最高議会)のメンバーであると思われます。彼らは宮きよめをされたイエス様に対して、その行動における権限の証拠としてのしるしを求めたのでした。彼らのその求めは、イエス様がされた(礼拝に相応しい態度ときよさについての)叱責の意味を理解していないこと、またイエス様を信じないことをあらわしています。実は、イエス様による宮きよめ自体が、ご自身の正体と権威についての“しるし”なのです。
イエス様のみわざは、イエス様のご性質を映し出します。イエス様は神の御子であられるので、神様に対する礼拝の場が汚されることをお喜びになりません。ですからイエス様による宮きよめは必然の対応なのです。
II. それは死と復活によってあらわされている (19~21節)
イエス様はしるしを求める彼らに、“あなたがたがこの神殿を壊したら、私は三日で建てる”と仰いました。紀元前586年にバビロン帝国によって破壊された神殿は後に再建され、この当時はヘロデ大王によって改造・拡張が行われていました。しかしイエス様は、建物ではなく、ご自分のからだを指して「神殿」と仰ったのです。イエス様はあえてぼやけさせるかたちで、ご自分の死と復活について述べられたのです。重要なポイントは、イエス様の死と復活を通して、礼拝の場所は、エルサレムの神殿(だけ)ではなく、教会と呼ばれる霊的な神殿(宮)に組み込まれた者たちの心に設けられることにあります。(エペソ2:19)
イエス様は神の御子としてすべての権威、絶対的権威をもっておられます。その上で父なる神様の御心のみを行われます。罪人のための死と復活は父なる神様の御心でした。イエス様は罪のないお方として罪人のために身代わりとして死ぬことが可能でした。罪のないお方として復活することが可能でした。イエス様には、神様だけがお持ちの、みわざ(権威)があるのです。
III. それは信ずる者にのみあらわされている (22節)
イエス様は、地上におけるお働きの初めから、その終わりを見据えておられたことがわかります。ご自分のからだが“壊されること”、十字架に挙げられること(ヨハネ3:14)、ご自分の肉を世界のいのちのためにお与えになること(同6:51)、埋葬されること(同12:7)、そして裏切られること(同13:21)、それらに関するご発言はご自分を待ち受けていることについての自覚をあらわしています。イエス様は定められたゴールに向かって自発的に進んで行かれたのです。
弟子たちが、イエス様のことばを本当の意味で理解したのは、復活の後でした。それは、聖書のことば、イエス様のみことばについての光が与えられた瞬間でした。
まとめ:イエス様が神の御子であられること、救い主(メシヤ)であられることのしるしはみことばのうちにある
イエス様の神殿に関するご発言を理解することができないユダヤ人たちは、みことばの意味するところを悟ることができず、幸福の道へと導かれることのないあわれな罪人の姿をあらわしています。今、私たちがイエス様を信じることができるために、神様が「奇蹟」を見せてくださるということはおそらくないでしょう。しかし、聖書のことばを読むことができ、そこにイエス様のみわざ、そして父なる神様のことばを、証しとして、証拠として受け取ることができます。(ヨハネ5:31~39)このみことばを信じるならば、イエス様が神の御子であられメシヤであられることを知ることができます。