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あるアメリカの牧師家庭で朝食をいただいた時のことです。父親である牧師が食事のお祈りの前に、お皿の上に聖書を載せ、みことばを読みました。読んだ箇所は覚えていませんが、そのように聖書が置かれたことは今でもよく覚えています。それはまさにみことばを(肉体的なものよりも大切な)食べ物として扱っていることを象徴するものでした。
聖書について学んできていますが、今回からは聖書のことばが個人的にどのような効果・祝福があるのかということについて学んでいきたいと思います。聖書は霊的な食べ物であることについて先ず学びしょう。
I. 生きるために食べましょう(申命記8:3)
霊的に生きるために食べよ:かつてイスラエルの人々は、40年におよぶ荒野の旅の中でマナが与えられました。このことは彼らを謙らせ、神様への服従をテストするものでもありました。しかし彼らを本当の意味で生かしたのはマナではなく、神様のことばであったのです。
神のことばによって生きよ:人は食べ物がなければ生きることができませんが、食べ物があれば、物質的なものがあれば生きられるということではありません。人は体とともに、心(霊の部分)をもっています。人は肉体的な存在であると同時に霊的な存在でもあります。肉体が糧を必要とするように、心(霊)も糧を必要としています。(イエス様を信じるまでは、霊的には死んでおり、霊的な糧の必要を覚えることさえありませんでしたが)しかし、霊的に生きるために取り入れるものは何でもよいということではありません。神様からのことばのみが、人を霊的に生かし、生かし続けるのです。霊的に保たれるためにはどうしてもみことばの摂取が必要なのです。私たちは、みことばを読んで聞くのみでなく、自分の生活に適用することが求められているのです。(ルカ11:28)
神のすべてのことばによって生きよ:信仰者は聖書のことば全体をバランスよく受け取らなければなりません。自分の好きな箇所、都合の良い所だけを切り抜くことはゆるされないのです。
II. 甘くなるまで食べましょう(詩篇 119:103、エレミヤ15:16)
詩篇の筆者やエレミヤは神様のことばを“口当たりのよいもの”としてとらえています。私たちは、預言者エゼキエルやイエス様の弟子であったヨハネのように、文字通り聖書(の巻物)を食べることが求められているわけではありませんが(エゼキエル3:3; 黙示録10:9-10)、みことばを受け取ることにおいて以下のことが求められています。
受け入れやすい部分だけに偏るな:
難しい部分も受け入れる柔軟さをもて:
聖書のすべての部分が、受け取りやすいものでは必ずしもありません。苦いと思われる部分、つまり従うこと、実行することができない、或いは困難であると思われる部分が存在するということです。しかしそれらの部分も、謙って素直に受け取っていく時に、信仰者としての成長が与えられ、苦いと思っていた部分がよいもの、甘いものとなっていくでしょう。
III. 大きくなるために食べましょう(Iペテロ2:2)
乳飲み子のように取り入れよ:赤ちゃんは命令されて母乳やミルクを飲むのではありません。赤ちゃんであること自体がそうすることをしないではいられないのです。イエス様を信じて救いをいただいたばかりの人は、みことばを聞こうとすること、学ぼうとする姿勢に積極性が見られます。しかし、時間の経過とともに、そのようなみことばに対する姿勢が弱くなっていくことはないでしょうか。そうなりがちであるからこそ、このような命令が与えられているのかもしれません。
真実を取り入れよ:クリスチャンが取り入れ続けるべき糧は、神様からの(聖書からの)真実のみです。偽りと悪を拒絶し(1節)ただ純粋なみことばだけを受け取る必要があります。
成熟を目指して取り入れよ:救いを実現し完成されるのは神様です。そこへ行きつく過程にあるクリスチャンは、救いを与えられた者として相応しく“救いにおいて成長する”ことが求められています。信仰者としての成熟もみことばによるのです。
まとめ: 聖書を信じるクリスチャンは、霊的健康と成長のためにみことばを豊かに受け入れる
イエス様は私たちのためにご自分を十字架につけ、救いを提供してくださいました。罪のゆるしと永遠のいのちの約束が与えられたのです。この救いの恵みは福音(みことば)の真実を土台としています。みことばを信じ救われたクリスチャンは、その生活において引き続きみことばを必要としています。クリスチャンの霊的歩みはみことばの真実によって健全に成り立つのです。神様からのみことば、聖書のことばによって健康な霊的生活は保たれていきます。みことばは私たちを救うのみならず、それを信じる私たちの歩みを続いて正しく導き、救い主であられるイエス様に似た者へと変えていくのです。私たちは肉体的な健康を重視する以上に霊的な健康と成長を重視しなければなりません。このことが確保されてこそ、罪の世にあって勝利を可能とすることができ、神様に栄光を帰すことができるのですから。