パウロはなおエペソにとどまっています。神様は彼を通して驚くべき奇蹟をおこなわれました。それは、完成した新約聖書が存在していない時代にあって、パウロのメッセージが真実であることを証明するものです。(IIコリント12:12; ヘブル2:3~4)ある巡回呪文師(魔よけ祈祷師)たちはパウロにならってイエス様のお名前を使い悪霊を追い出そうとしました。悪霊はこの者たちのちから(権威)を認知しませんでした。悪霊でさえ、悪霊を追い出すちからはイエス様と使徒たちだけにあることを証明したのです。巡回呪文師たちが、悪霊につかれている人から攻撃を受け、傷を負ったニュースはその辺りに知れ渡ることになり、人々は恐れ、イエス様のお名前をあがめました。ある信仰者たちは、神様の前に悔い改めました。また魔術を行っていた多くの者たちが、魔術に関連する書物を焼き捨てました。これらのことを経てみことばは大きく広まり、みことばの効果は強くなっていきました。
私たちが望むことの多くは、私たちの幸せ(と感じること)と深く関わっているのではないでしょうか。希望する何かがあるときに、私たちには励もうとする原動力がわいてきます。もし希望することがなく、何かに励もうとする気持ちもないとするならば、日々の生活はつまらないものになり、生きていることは辛くなる可能性があります。イエス様を信じたクリスチャンは、イエス様に望みを置いた者です。イエス様(神様)の望みを自分の望みとする人は、クリスチャンとして生活していく原動力をいただきます。今回は主がお望みになっているいくつかのことを取り上げてみたいと思います。(使徒の働き19:11~20)
I. 神のみわざが示される(私たちを通してしめされる)→神様がパウロを通して行われた同じような奇蹟が、(必ずしも)今私たちを通しても行われるということではありません。しかし神様は私たちに救いを与え、救いにおける変化を与えてくださいました。それは神のわざであり、再創造の奇蹟です。私たちの生き方、価値観に変化があるとするならば、それは神様のちからによることであり、それらを人々に示すことができます。もし示すことができないとしたら、それは神様のみことばに充分に従わず、みことばの効力が充分にあらわされていない(充分な変化を経験していない)可能性があります。
II. 主イエスの御名があがめられる(私たちを通してあがめられる)→私たちになされた、そして私たちを通してなされた神のみわざが示される時、主の御名があがめられることへとつながっていきます。私たちの身の上に起こっている良いこと/祝福(或いは困難な状況におけるちから・喜び・平安)の源が神様であることを証しすることができます。そのことにより、ある人々は神様のみわざを認め、イエス様のお名前をあがめることになります。もしあがめられていないとするなら、自分の経験についての手柄を自分のものとし、自分がほめられている(或いはそれを求めている)可能性があります。或いは自分の経験とイエス様との関係を切り離しているかもしれません。
III. 主のみことばが広まり力強くなる (私たちを通して広まり力強くなる)→私たちに救いのみわざがなされ、それに伴う変えられた歩みが継続していくことにより、私たちの信じるイエス様には救い(希望)があることが周囲に伝わっていきます。イエス様に信じ従う者には祝福があることが知られるようになります。聖書のことばが単なる教えではなく神の(超自然の)ちからであることがあらわされるようになります。(当然人々の受け止め方には相違がありますが)もしみことばが広まり力強くならないとするなら、それは救いの証しが充分になされていないことにより、イエス様を信じていることと私たちの生き様とのつながりが人々に対して明確ではない可能性があります。
まとめ:神様のお望みになられることが実現するのは、クリスチャン一人一人を通してである →(神様は、私たち人間を用いることなく、お望みになることを実行なさることも可能であり、そうされることも事実です。)主の望みを、自分の望みとする者の集団である教会は、神様が喜ばれる主のからだを形成していきます。死後の永遠の保障をいただいた私たちクリスチャンは、地上の生涯をどのように歩むかが大事です。どのように歩んだかを評価するのは神様です。私たちはこの場所で、自分を通して、そしてこの教会を通して、主の望みが実現するのを見たいのです。あなたはそれを望んでいますか。