クリスチャンに与えられている大きな使命の一つは、イエス様によって与えられた幸いを人々に伝えることです。私たちには伝えることができる、また伝えなければならないメッセージがあります。今回は私たちがどのようにして、何を伝える必要があるのか、またどのような結果を想定すべきかを考えてみたいと思います。(使徒の働き17:1~9)
ピリピをあとにしたパウロたちは(エグナティア街道を通って)アムピポリス、アポロニヤを経てテサロニケに到着しました。ここにはユダヤ人の会堂(シナゴグ)があり、例のごとくパウロは会堂で三回の安息日にわたってみことばを語りました。肯定的な反応を示した人の大部分はギリシャ人(異邦人)でした。一方 あるユダヤ人たちは否定的な反応を示し、公の場で騒ぎを起こしました。
I. 真実を語る責任 (1~3節) →今回の箇所では、まずパウロがみことば(聖書)に基づいて語っている(論じている)ことに注目すべきです。みことばは、神様のことばです。神様とは、創造主であり、人の存在の根源です。このお方のことばは真実です。なぜならこのお方ご自身が真実であられるからです。このお方のことば(知る必要のあるメッセージ)が私たちにも伝えられました。私たちがみことばを語る(説教する・教える・伝道する)時、それは聖書と合致していなければなりません。私たちが聖書のことばに付け加えたり、省いたりしてはならないのです。みことばを語る時、私たちは神様の権威で語ることができます。“神はこう言われる”と語ることができるのです。これらはみことばを語る者に与えられている責任と特権です。
同時にパウロが、キリストを語っていることに注目すべきです。私たちが語るべき一番の中心はキリスト様です。キリスト様のテーマは、聖書のはじめから終わりまで貫かれています。みことばを読むときには、各箇所においてこのテーマとの関連を常に意識する必要があります。聖書はキリスト様抜きでは語れません。福音はキリスト様抜きでは語れません。キリスト様に目が、そして心が向けられるように、このお方を指し示すように私たちは語る必要があります。キリスト様が誰であり、何をされたのか、各人とどう関係があるのかを明確にする必要があります。
II. 真実を語る結果 (4~9節) →パウロが語ったことに対して、ある人々は理解し、信じ、従いました。ある人々は嫉む心を持ち、暴力的に反対の意思を示しました。種まきのたとえ(マタイ13章)のように、みことばである種が、良い地に落ちて、芽を出し、実を結ぶこともあれば、種を全く受け付けないこともあります。先に神様のみことばを受け入れることができた私たちに求められていることは、忠実に語り続けていくことです。真実が語られたことによる究極的な結果は、主の働きに委ねるほかありません。
まとめ:真実が語られるところに 神様のお働きがあらわされる →私たちクリスチャンには、ことばと生き方を通して真実を伝える、キリスト様を伝える、福音を伝える使命が与えられています。人が結果的に救われることがないとするならば、それは各人の罪の結果です。しかし、すでに救われた私たちには、“伝えるべきメッセージを伝えたか”という責任が問われます。みことばを学び、蓄え、みことばに生き(みことばを実践し)、聖霊なる神様の導き・働きを祈りつつ、真実を語る者として整えましょう。そして、真実を語るお役目を与えてくださった神様の救いのみわざがあらわされることを期待し、機会を用いてみことばを語る者とさせていただきましょう。