生後間もない赤ちゃんは目が殆ど見えていません。視力が1.0になるのは3歳頃だそうです。生まれつき目が見えなかった人は、目の発達のプロセスを経験することなく、突如視力を持つことになりました。イエス様による癒しのみわざは、それらの段階を省略し、瞬時の解決を可能としました。しかし、イエス様の奇蹟を見聞きした人すべてが、このことを喜び証言したわけではありませんでした。今回は、イエス様のみわざを素直に喜ばなかった人々、正しく応答しなかった人々に着目したいと思います。(ヨハネの福音書9章18~23節)
I. 神様のみわざを否定したい人(18~19節)
①それは奇蹟を信じないから(18節前半) ユダヤ人(パリサイ人)たちは、目が見えるようになった人の証言を信じることができませんでした。人間以上の存在による不思議なみわざを受け入れることができない彼らは、真実から目を背けることを選んだのです。
②だから科学的説明を探し続ける(18節後半~19節) 信じることができない、信じたくない彼らはあくまでも科学的に、人間的に納得のいく説明を求め続けていきます。目が癒された人の両親を呼び出したことは、彼らが癒された人の証言を価値あるものと受け取らなかったことのあらわれです。ユダヤ人たちが両親に尋ねたのは、事の真相を知りたかったということではなく、自分たちの理解を越えたこと、自分達に都合の悪いことは起こらなかったことを確認したいだけではなかったかと思われます。
II. 神様のみわざを告白できない人(20~23節)
①それは自分を守るため(22~23節)ユダヤ人に自分の息子について尋ねられた両親は、イエス様の奇蹟によって癒されたことを明確に告白することはできませんでした。生まれつき目が見えない息子の癒しよりも、ユダヤ人たちを恐れる思いが勝ってしまったからです。息子ととともに喜び、イエス様のみわざを証しすることよりも、自分たちの身の安全(今後の処遇)を優先したのです。結果的には息子を見捨てるような発言をし、対応することを選んだのです。
②だから真実のすべてを語らない(20~21節)両親は、目が見えるようになったのは自分たちの息子であり、彼が生まれつき目が見えなかったことは認めました。しかし事の核心部分である、どのようにして、そして誰によって癒されたかについては“知らない”と言いました。さらには、大人である本人に聞くように要請し、イエス様の名前を出すことさえはばかったのです。
まとめ:イエス様を証しすることは、神様のみわざに応答することである
イエス様を自分の個人的な救い主として信じたクリスチャンは、神様のみわざを否定したいとは思わないでしょう。では積極的に告白し証ししようとしているでしょうか。クリスチャンは信仰・価値観・考え方が違う人々の中にあって、ともすれば世の中の感覚にあわせよう、一人だけ浮いたことを言うのはやめようとしてしまうかもしれません。否定されたり、拒絶されたりすることを恐れてイエス様のこと、聖書のことを証しすることを控えてしまうかもしれません。クリスチャンはイエス様を主と告白し、イエス様が神の御子であられ、キリスト(メシヤ)であられること、救い主であられることを告白して救われました。この告白、証しは継続されるべきものです。神様のみわざ、救いのみわざは、クリスチャンの歩みの中で示され続けるべきものです。それは神様のみわざへの応答でもあるのです。(マタイ10:32~33; ローマ10:9)