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神様が定められた信仰生活を保つための具体的な手段には祈りが含まれます。今回は祈りに含まれる、神様に対する賛美について学びます。
祈りは特権であるとともに命令でもあります。アブラハムはソドムのために祈り(創世記18:22-33)、ヒゼキヤ王はアッシリアの王センナケリブから護られるようにと祈りました。(II王19)ダビデも多くの祈りをささげ(詩篇5:2; 32:6)、サムエルはそうしないことは罪であると認識しました。(Iサムエル12:23)多くの場面で祈ることが命じられています。(エレミヤ29:7; マタイ5:44; 26:41; ルカ18:1; 21:36; エペソ6:18; Iテサロニケ5:17, 25; Iテモテ2:8; ヤコブ5:13-16)エズラは、武力よりも祈りが重要であると考えました。(エズラ8:21-23)イエス様は、食物や睡眠よりも重要と考えておられました。(マタイ4:2; マルコ1:35; ルカ6:12)使徒たちは説教よりも祈りを優先しました。(使徒6:4)
祈りは神様との会話ですが、その中には賛美が含まれます。イザヤ書6:3では、天使が交互に賛美をしています。神様の聖さについての三唱は、このお方が堕落した被造物とは一線を画したお方であることを強調し、三位一体であられることを示唆しています。同じ表現が、黙示録4:8でも登場し、ここでは「四つの生き物」によって無限の聖さを有しておられる神様への賛美がささげられています。(詩篇111:9)過去・現在・将来のみわざに表される神様の聖さと力を祝っているのです。地上は、神様の図り知ることのできない栄光と完全さの展示場です。
神様の聖さは、説明することが最も難しい神様のご性質と言えます。これは本質的に、人には(固有のものとして)分かち合われていないご性質です。(愛や憐れみなど)あるご性質は(神のかたちに造られた者として完全な意味ではないにしても)人に分かち合われていますが、全知・全能・遍在などは分かち合われていません。聖さというご性質について言えば、人が聖くされるのはイエス様との関係においてのみ分かち合われます。これはイエス様ゆえに転嫁された聖さです。(IIコリント5:21)
神様の聖さのご性質は、このお方を他の全てのものから分離します。神様の聖さは、単に完全であり、罪汚れがないということだけでなく、別格ですべてを超越しておられることを含んでいます。神様の聖さには神様の素晴らしさの不思議が満ちており、その栄光をわずかでも理解し始める時、人はそれを驚愕とともに見つめるしかないのです。
直に神様の聖さを目撃した、預言者であり正しい人であったイザヤは、自分自身の罪深さを認識し、自身の存在の危機を表現しています。賛美を叫んでいる天使でさえ、顔と両足を6つの翼で覆いました。これは神様に対する崇敬と畏怖の表現です。その反応は、そこに居合わせることの不適格さを認識していることのあらわれです。聖い天使が神様の臨在において畏敬を示すのであれば、不完全な私たちはどのような態度と姿勢で御前に出るべきでしょうか。私たちは(神様の聖さの認識不足ゆえに)十分に考えることなく、尊敬を欠いたかたちで粗雑に神様の前に出てしまう僭越さを省みなければなりません。
祈りの際に、私たちは全宇宙における神様の主権を認めなければなりません。(マタイ6:9)神様は、威厳があり聖なるお方、そして人格を持ち、愛に満ちておられます。このお方が賛美されることを願い、聖いお方として取り扱われることを祈るべきです。神様のお名前において行われる働きは、お名前があがめられるかたちでなされるべきであり、また神様のお名前が、神様のかたちに造られた者の思いや行動によって軽んじられることがあってはならないのです。
まとめ:神様に対する賛美の祈りは信仰生活を健全に保つ
賛美はまことの神様へのものです。それは私たちの心が神様に向けられる時に行われるものです。神様は賛美される十分な理由を持ったお方です。神様を賛美しなくていい人はいません。神様を賛美しなくていい時間も場所もないのです。神様は良いお方であり、ほめたたえられるべきお方です。神様の創造ゆえ、救いゆえ、毎日の供給・導き・護りゆえ、罪深さに見合う罰を与えないことゆえ、不忠実な歩みには見合わない祝福ゆえに、このお方はほめたたえられるべきなのです。神様を賛美する人は、神様を喜ぶ人、神様にあって満足する人、神様の前にへりくだり、神様に従い、神様の御心を求める人です。神様への賛美に満ちた祈りの生活をしましょう。自分自身がどのようになり、周囲が、そして世界がどのようになろうとも神様は賛美されるに相応しいお方であり続けるのですから。