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神の御子であられるイエス・キリスト様が、人となられ、罪のある人間に代わって死なれました。イエス様の受けてくださった苦しみにより、罪人に赦しの道が開かれたのです。イエス様の受難は、私たちの救いのためであったことは間違いのないことですが、私たちのための模範であったという側面もあります。それは、理不尽な取り扱いの中で従順に振る舞う訓練に召された私たちのための模範です。イエス様の従順の模範について学びしょう。
① 従順の模範の目的(21節後半):イエス様が苦しみを忍ばれたのは、私たちがそれを見倣うためです。イエス様の苦しみが私たちのためであったように、神様の御心を行うことによって私たちが経験する苦しみは、他者のための苦しみとなるのです。苦しみを経験し、主のために耐え忍ぶことにより神の御国を前進させること、それはクリスチャンに与えられている召しです。イエス様の「足跡に従う」とは、“本物”を写し紙に書きとるように、イエス様に至近距離でついて行くということです。従順を示された主の苦しみは私たちの救いのためであり(IIコリント5:21)、私たちの実践のためなのです。
② 従順の模範の内容(22~24節前半):究極の従順を貫かれたイエス様は委ねる姿勢を示されました。イエス様は、罪・欺きとは無関係のお方ですから私たちが、理不尽に耐えるための完璧なお手本です。イエス様は、復讐・反抗をされないお方でもあります。主は口汚い言葉に対してけっして同じものをもって報復されませんでした。さらにイエス様は、父なる神様を信頼するお方です。イエス様はピラトに引き渡されました。ピラトはイエス様をユダヤ人に引き渡しました。しかしイエス様は、自らご自身を父なる神様に引き渡されたのです。沈黙の中で苦しみに耐え、父なる神様の主権と義に対する完璧な信頼を示されました。そしてイエス様は、罪人の罪を背負うお方です。信じる者たちのお手本として、また身代わりとしてそうされたのです。彼らのために処罰を受けるということは、罪を知らない方が罪とされたということです。イエス様は人々の罪を背負い、罰を受け、聖い神様の要求を満たされました。これこそが福音の中心です。
③ 従順の模範の効果(24節後半~25節):イエス様の従順は私たちをあるべき姿に回復するという結果をもたらしました。私たちは、罪に対して死に、義に対して生きる者と変えられました。私たちは、身代わりに死んでくださったイエス様にあって、罪のための支払いをしたという意味においてすでに死んでいます。(ローマ6:1-11)そして、私たちはイエス様の死のゆえに正しいと宣言され、(罪のための罰の支払いが済んだだけでなく)新しいいのちに生きるようにされたのです。(ローマ6:12-22)イエス様の十字架上の苦しみは、罪の致命的な病からの霊的癒しを実現したのです。
さらにイエス様の従順は、私たちを“人としての原点”に引き戻したのです。救いのみわざを完成されたイエス様の前に、罪を悔い改め、救い主として信じることにより、従順の基準であられるお方、身代わりとなられたお方、そしてたましいの牧者であられるお方のところに帰ることができたのです。
まとめ:主の偉大な従順の模範は偉大な救いを生み出した
イエス様の模範は、父なる神様への従順が土台となり動機となっています。私たちがその模範にならうことができるとすれば、イエス様への従順が土台となり動機とならなければなりません。イエス様の従順がなければ、私たちの救いの方法はありませんでした。イエス様の従順ゆえに、私たちは帰るべきところに帰ることができたのです。救われた者たちが実らせる良い実の一つは、理不尽な取り扱いの中でも、イエス様の模範にならい、甘んじてその仕打ちを受けることです。私たちの従順が誰かを永遠に救うことはありませんが、イエス様がほめてくださる良いものを生み出します。私たちはイエス様の模範に倣うために(先ず)救われなければなりませんでした。そして救われた今 イエス様の御足跡に従うように召されていることを自覚して歩む必要があるのです。