10月2日 「みこころのままに」の本意

エペソの教会のリーダーたちに別れを告げたパウロたちはエルサレムを目指します。途中、ツロやカイザリヤに立ち寄り信者たちと時間を過ごしました。ある人々は聖霊によって、パウロがエルサレムで経験することについて知らされ、彼がエルサレムへ行くことをおもいとどまらせようとしました。しかしパウロの決心は固いものでした。彼の姿は、ご自分のいのちを投げ出すために、エルサレムに向かわれたイエス様のお姿と重なります。(ルカ9:51)
14節で、決心の固いパウロに対して人々が「主のみこころのままに」と言っています。今回は他人や周囲の状況といった、自分がコントロールできない状況でのこの表現の真意を考えてみたいと思います。(使徒の働き21:1-16)

I. 人/状況に対する自分の考え・願望を神様に委ねる →人は十人十色で皆考え方が違います。クリスチャンも同じです。クリスチャン生活における様々な“やり方”に相違が出てくることは当然です。(これは聖書の教えに明確に反しているとは認められず、教えの原則をどう個人に適用するかによって行動の仕方、“信じ方”に相違が出てくる場合の話です)そのような中で「みこころのままに」という表現(祈り)を乱用することは慎まなければなりません。自分と意見が合わないからといってこれを棄て台詞のように使ってはなりません。またあきらめや自分の考えに沿わないことによる感情表現としても不適切です。この表現を使うからには、投げやり的な対応ではなく、最終的に自分とは違う選択をする人について、建設的に神様に委ねることが大切です。クリスチャンであるからといって皆が同じ教会に通うのでもなく、共に奉仕が出来るということでもありません。自分がそうであるように、他のクリスチャンにも今までの経緯や事情がある中で、現在の信仰の歩みを形成していることを念頭に置き、少なくとも主にあってその存在を尊重することが大切です。

II. 神様のご計画・お考えが、人/状況に行われることを心から願う →人の考え方を変えるのは容易ではありません。しかし神様に祈ることができます。神様は先のことをご存知です。また神様のなさることは完全であり、よいものです。(結果としてよいものを提供してくださいます)自分とは意見の違うクリスチャンの状況をご存知であられる神様が、その人の上に最善を行ってくださることを期待するのです。「主のみこころのままに」は積極的な願いの祈りであるべきです。イエス様は御心が行われることを祈るように仰いました。(マタイ6:10)またイエス様は十字架を前にして、ご自分のこころではなく、父なる神様の御心が成ることを願われました。(ルカ22:42)私たちはイエス様の教えと模範に従って、他者や状況にも対応すべきではないでしょうか。神様の御心を知ることがチャレンジされていますが(エペソ5:17; コロサイ1:9)、すべての状況について御心を知ることは不可能です。しかし御心が成ることを祈ることはできます。個人的には受け入れることができない状況が目の前で起こっていたとしても。

まとめ:人/状況の上に神の御心が行われることを求める者は、自らも神の御心の中を歩むことを願う者である →物事は(自分の事であれ、他人の事であれ)、神様との関係において、また神様を視野に入れて見、考え、判断すべきです。大切なことは、最終的には神様の御名があがめられるところに行き着くことであり、それを願い、そこを目指すべきなのです。(私の気持ちや主張ではなく、神様の御心そして神様があがめられることが大事です)自分とは色んな意味で違うクリスチャンへの対応の仕方においても神様の御心を求め、自分の責任を超えたものについては御心に委ねる姿勢を持ちましょう。

 

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